🔥キャリア34年!元内閣官房副長官・石原信雄氏が語る自治省事務次官の舞台裏:小沢一郎氏との出会いと幹部人事の変遷🔥【政治・官僚・選挙制度】

長きにわたり霞が関を支え、後に内閣官房副長官を務められた石原信雄氏の、自治省事務次官時代の貴重な体験が明かされました。税務局長から急遽、1981年(昭和56年)5月に事務次官の急逝を受けて官房長に就任された石原氏。翌1982年7月には財政局長、そして1984年7月には自治省のトップである事務次官に就任されたのです。次官というポストは「政」すなわち政治家や政権と、「官」すなわち官僚組織との接点となる、非常に重責を担う役割であります。政権を内部から支える一方で、ときには省内の職員を守る防波堤の役割も求められる、まさに組織の要といえる存在だったことがうかがえます。

かつて幹部人事は、各省の次官に決定権がありました。この人事における判断基準は、課長クラスまでは制度への深い理解力や交渉能力であり、局長以上の幹部には部下をしっかりと掌握できる能力が重視されたといいます。また、自治省の事務次官は財政局と行政局の出身者が交互に就任する「たすき掛け」という慣例がありました。この二つの局は性格が大きく異なり、行政局が組織や権限といった原理原則や地方分権を重視するのに対し、財政局は行政サービスを持続させるために地方の財源をどう確保するかという実務、すなわち「実質」を最優先に考える点で対照的であります。

内務省の時代から戦後しばらくは地方制度の確立が焦点であったため、行政局の力が強い状況でした。しかし、戦後の緊縮財政政策、特に1949年(昭和24年)に実施されたドッジ・ラインを境に、地方の財政難が大きな問題としてクローズアップされるようになると、財政局が優位な立場へと転換していきました。この傾向は現在も続いています。石原氏ご自身も財政課の課長補佐時代に、行政局への異動話があったものの、当時の財政局長によって立ち消えになり、結局、行政局での勤務機会は一度もなかったというエピソードからも、当時の財政局の優位性が分かります。

次官の重要な職務の一つに、天皇陛下に地方の状況を直接ご報告する「奏上(そうじょう)」の機会があります。これは、全国から選ばれた4人の知事が、総理大臣や自治大臣と共に参内し、それぞれの地域の実情を陛下にご説明するというものです。石原氏が次官のとき、沖縄県の西銘順治知事が昭和天皇に沖縄の事情を奏上されました。通常は4人の知事それぞれに陛下からご下問があるのですが、この時は西銘知事のご報告に対して特に詳しく尋ねられ、面会のほとんどの時間を沖縄のために割かれたといいます。

実は昭和天皇は、以前から熱望されていた沖縄訪問を、体調を崩されたために一度断念されていました。体調が回復されると、すぐさま沖縄へ行けないかとのお話もあったようですが、主治医の判断で見送りが続き、残念ながら実現しないままに終わってしまったのです。西銘知事への熱心な問いかけからは、陛下が沖縄に対してどれほど強い想いを抱かれていたかが伝わってきます。このように、政務から公務まで幅広く関わる次官の職務は、国の歴史的な出来事や、人々の心に残る出来事に立ち会う機会が多い、非常にやりがいのあるものでしょう。

スポンサーリンク

若き小沢一郎自治大臣との出会いと選挙の舞台裏

1985年(昭和60年)12月、中曽根内閣の改造人事があり、当時43歳という若さで初入閣を果たした小沢一郎氏を自治大臣としてお迎えしました。石原氏と小沢氏はこの時まで接点がなかったそうですが、この出会いから公私にわたる深い関係が始まります。小沢大臣は、自身のキャリアのスタートから「選挙制度」に強い関心を示されており、自民党内で選挙制度に携わっていた渡部恒三先生が、大臣室に頻繁に出入りし、「いっちゃん、いっちゃん」と親しげに話し込む光景が日常だったといいます。

翌1986年6月2日、突如として衆議院解散があり、「死んだふり解散」として知られる衆参同日選挙が実施されました。このとき、石原氏には一つ大きな気がかりがありました。それは、所管大臣である小沢大臣の選挙です。当時の小沢氏は衆議院当選6回を数えていたものの、直近の1983年(昭和58年)衆議院議員総選挙では、中選挙区制度の岩手2区で最下位当選という結果であり、その地盤はまだ盤石とは言い切れない状況でした。選挙制度を担当する自治大臣が落選するという事態は、いかにも示しがつかないため、石原氏は懸念を抱かれたそうです。

そのため、石原氏は自ら選挙事情を視察すべく岩手県を訪問し、当時の知事に面会して「小沢大臣は大丈夫だろうか」と心配を尋ねたりされたとのことです。さらに、大臣のご実家に挨拶に伺った際には、小沢氏のお母様から「一郎がお世話になります」と深々と頭を下げられたそうです。石原氏の印象では、小沢大臣はお母様を非常に大切にされる「お母さん子」でいらっしゃり、長年のお付き合いのなかでお父様のお話は一度も聞かれたことがなかったといいます。この心温まるやり取りに触れ、石原氏は「何としてもお守りしなければ」という強い使命感を感じたことを、今でも鮮明に覚えていらっしゃるのでしょう。

選挙制度とは、私たちの代表者を選ぶためのルールであり、その設計のあり方が政治の安定性や公正さに直結する、民主主義の根幹をなす非常に重要なテーマであります。若き小沢氏がこのテーマに強い関心を示されていたことは、彼の後の政治家としてのキャリアを予見させる出来事といえるかもしれません。SNSでは、石原氏のようなベテラン官僚が、大臣の選挙を個人的に心配し、視察にまで出向くというエピソードに対し、「今では考えられない官僚と政治家の関係性の深さだ」「昔の官僚は本当に政治家を支えていたんだな」といった反響が多く見受けられます。

そして1986年7月6日、小沢大臣は見事トップ当選を果たされ、石原氏の心配は杞憂に終わりました。その当選を見届けた直後の7月11日、石原氏は事務次官を退任し、実に34年間勤め上げられた霞が関でのキャリアに幕を下ろされました。元内閣官房副長官という要職を歴任された氏の、貴重な体験談は、現代の政治や行政のあり方を考える上で、多くの示唆を与えてくれるに違いありません。

コメント

タイトルとURLをコピーしました