野中郁次郎が語る一橋大学の「四人組」事件!1980年代の学問的対立と改革への情熱

日本を代表する経営学者、野中郁次郎氏の歩みを振り返る中で、避けては通れない激動の時代があります。それは1982年2月1日に、野中氏が一橋大学商学部の産業経営研究施設へと移籍したことから始まりました。当時の国立大学は、伝統を重んじるあまり、どこか閉鎖的な空気が漂っていたようです。防衛大学校での充実した研究生活に区切りをつけ、新天地へと足を踏み入れた野中氏を待っていたのは、想像を超える旧態依然とした学界の壁でした。

当時の日本の経営学界には、「解釈学」や「訓詁(くんこ)学」と呼ばれる手法が根強く残っていました。これらは、海外の著名な学者が書いた文献を、一字一句丁寧に解説し、翻訳することに主眼を置く学問スタイルです。つまり、先人の言葉を「誰がこう言った」と紹介するだけで終わってしまい、日本独自の新しい理論を生み出す力が欠けていたのです。これでは、変化の激しいビジネスの現場に即した生きた学問とは言えません。

こうした状況を打破しようと立ち上がったのが、今井賢一先生や宮川公男先生といった改革派の面々です。彼らが目指したのは、データや事実に基づいて理論を検証する「実証研究」を中心とした、米国型の先進的な学部への転換でした。実証研究とは、単なる机上の空論ではなく、実際の企業の動きや統計データを分析し、客観的な証拠を持って理論を証明する手法を指します。野中氏はこの革新的な動きに呼応し、一橋大学の門を叩いたのです。

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情熱が招いた「四人組」のレッテルと学長選の悲劇

1980年代半ば、一橋大学には竹内弘高氏や金子郁容氏といった優秀な人材が集まり、今井先生の構想は着々と形になりつつありました。しかし、1986年に入り、改革の波に急ブレーキがかかる大事件が発生します。今井先生が学長選挙に立候補した際、学生による「除斥(じょせき)投票」という制度によって、当選確実と言われながらも落選の憂き目に遭ってしまったのです。除斥投票とは、学生が特定の候補者を不適当として退けることができる、当時の大学自治における特殊な仕組みでした。

表向きの理由は寮の建設問題を巡る対立でしたが、その裏には強力なリーダーシップで改革を推し進める今井先生への、守旧派による反発があったことは想像に難くありません。この理不尽な結果に憤慨した野中氏は、竹内氏や米倉誠一郎氏、榊原清則氏らと共に、学生に反省を促すビラを配布しました。この行動がきっかけで、彼らは学生から「四人組」という不名誉な名前で呼ばれるようになり、学内で孤立する事態を招いてしまいます。

SNS上では、このエピソードに対し「当時の大学の閉鎖性に驚く」「野中先生たちの熱い志が今の日本の経営学を支えている」といった、改革者たちの勇気を称える声が多く見られます。私自身の見解としても、既存の権威に阿ねることなく、真に社会に役立つ学問を追求しようとした彼らの姿勢こそが、後の「ナレッジ・マネジメント」という偉大な理論を生む土壌になったのだと感じます。物騒な立て看板が立つほどの逆風の中でも、信念を曲げなかった情熱に、今の私たちは学ぶべき点が多いでしょう。

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