現代において、令和への改元が平穏無事に執り行われたのとは対照的に、明治へと年号が変わった1868年(明治元年)の日本は、まさに混迷を極めていました。鳥羽・伏見の戦いで新政府軍が勝利を収めたものの、旧幕府勢力の軍事力は依然として強く、諸藩はどちらにつくべきか静観していたのです。この戊辰戦争の展開を大きく左右したのが、徳川御三家の筆頭である尾張藩の決断でした。尾張藩主・徳川慶勝(とくがわよしかつ)は、旧幕府寄りの藩士たちを厳しく処罰し、朝廷を尊び国を思う「勤王」の立場を明確に打ち出しました。この行動は、東海道や中山道の各藩を新政府側へと説得する流れを生み出し、後に江戸城の無血開城という歴史的な偉業への道筋をつけたと言えるでしょう。
作家・城山三郎は、自身の出身地である名古屋市を舞台に、この尾張藩が払った大きな犠牲と、維新後に新政府から冷遇された「冬の時代」を、小説『冬の派閥』で詳細に描いています。この作品は、華々しい明治維新の裏側で、誠実に国難に立ち向かいながらも報われなかった人々の苦悩に焦点を当てた傑作です。
尾張藩を襲った悲劇「青松葉事件」の真相とは
尾張藩の歴史を静かに伝える場所が、名古屋城の東門を入った先の植え込みにひっそりと佇んでいます。多くの観光客が復元された豪華絢爛な本丸御殿へと急ぐ中、ほとんど誰も見向きもしないその石碑には、「青松葉事件之遺跡」と刻まれています。これは、幕末維新の激動期における藩内の暗い歴史を象徴する史跡なのです。
作中、尾張藩の第14代藩主である徳川慶勝は、物事を深く考え判断する「熟察」を常に心掛ける、誠実な人柄として描かれています。彼は安政の大獄で一度は藩主を退いたものの、再び藩の実権を掌握し、第一次長州征討軍の総督や、徳川慶喜への「辞官納地」(官位の辞退と領地の返上)を通告する大役、さらには鳥羽・伏見の戦い後の大坂城受け取りなど、幕末の重要な局面で次々と重責を担いました。
しかし、慶勝を最大の苦悩へと追い込んだのが、藩内の「姦徒(かんと)誅戮(ちゅうりく)」の朝命、すなわち「国賊や悪党を捕らえて死刑にせよ」という朝廷からの命令でした。彼は悩み抜いた末、旧幕府寄りの藩士14名を処刑する粛清を決行します。これが世にいう青松葉事件です。
小説の描写は、城門を閉鎖し、家臣に刑を言い渡し、次々と首をはねていくという、まるで流れ作業のような冷徹さで、読者の背筋を凍らせる迫力があります。この事件の首謀者については、当時の権力者であった岩倉具視の陰謀説や、薩摩藩・長州藩による報復説など、いくつかの説が唱えられていますが、未だに真相は闇の中なのです。
この歴史的事件に関するSNS上の反響を見てみると、「青松葉事件は名前すら知らなかった」「尾張藩の影の功績に驚いた」といった声が多く聞かれ、華やかな維新史の陰に隠れた尾張藩の苦難と慶勝の決断に改めて注目が集まっていることが伺えます。
「絶対正義はない」城山三郎が問う指導者の資質
尾張徳川家が所蔵する宝物を展示している徳川美術館では、この時代の状況について、学芸部部長代理の原史彦氏(51歳)が「慶勝は時代に翻弄されながらも、その時々で最善と信じる決断を下した」と語っているのが印象的でした。歴史には「絶対的な正義」も「絶対的な過ち」も存在せず、ただ状況に応じて決断するしかなかったというのです。この言葉は、私たち現代の読者にも、組織や指導者の在り方について深く考えさせるきっかけを与えてくれるでしょう。
慶勝の苦悩は、作家・城山三郎自身の戦争体験とも深く結びついています。城山氏は、海軍特別幹部練習生として終戦を迎えた際の体験を、本書のあとがきで明かしています。太平洋戦争下で「朝命を奉じ、命を捧げて戦うこと」が生涯の生きがいだと信じていたのに、終戦によって「朝命が朝露のようにむなしく消え失せてしまった」と、その時の虚無感を述懐しています。城山氏のこの経験こそが、指導者や組織、そしてその中で生きる人間はどうあるべきかを問う、この『冬の派閥』の執筆の大きな動機となっているのです。
「一人の英雄ではなく、様々な派閥争いの末に日本の近代は幕を開けた」という原氏の言葉の通り、私たち読者は、名古屋城天守閣の誇らしげな金鯱(きんしゃち)の輝きを見るだけでなく、その足元にある青松葉事件の石碑に立ち止まり、幕末維新の功労者でありながら苦難の道を歩んだ尾張藩の働きを、今こそ見直すべきではないでしょうか。
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