今、世界各国で「最低賃金」の引き上げを巡る議論が白熱しています。日本でも、政府が年率3%以上の賃上げを目標とするのに対し、日本商工会議所をはじめとする中小企業3団体は、その実現の困難さから緊急提言で反対を表明しました。この背景には、グローバル化の進展に伴う先進国での賃金低下や、広がる経済格差という深刻な問題があり、最低賃金が格差是正の切り札として注目されているのです。
特にアメリカでは、連邦政府の最低賃金が約10年間も時給7ドル25セント(当時のレートで約790円程度)に据え置かれてきたことを受け、これを倍以上に引き上げようという「15ドルへの闘争」という運動が大きなうねりとなっています。民主党の有力大統領候補であるバーニー・サンダース上院議員らもこの目標を強く支持しており、大きな政治課題へと発展しているのです。また、ヨーロッパでも、フランスでは反政府運動への対応としてマクロン大統領が最低賃金の引き上げを約束し、イギリスでもハモンド財務相が「野心的な」引き上げを求めるなど、各国政府が格差是正に向けて具体的な動きを見せています。ドイツも2015年に最低賃金制度を導入しており、この流れは世界的な潮流と言えるでしょう。
しかし、実際に最低賃金を引き上げた場合、経済にどのような効果が生まれるのかという点は、国によって結果がまちまちで、大きな論争の的となっています。経済学の世界で長年議論されてきたのは、最低賃金の引き上げは雇用を減らすという通説です。この通説に一石を投じたのが、後にオバマ政権で大統領経済諮問委員会(CEA)委員長を務めるアラン・クルーガー氏らが1990年代前半に発表した画期的な論文です。彼らは最低賃金を引き上げたニュージャージー州と据え置いたペンシルベニア州のファストフード店を比較検証し、雇用にマイナスの影響は出ず、むしろプラス効果さえあると分析したのです。この意外な研究結果は大きな議論を巻き起こし、その後の各国での研究や政策に多大な影響を与えました。
世界が注目する「60%の分水嶺」とは?
最低賃金が経済に与える影響については、各国で様々な実験が行われています。例えば、イギリスは1993年に最低賃金を廃止したところ、賃金低下や失業率の増加、社会保障費の増大といった問題に苦しむこととなりました。これを受け、1997年に政権を奪還した労働党は最低賃金制度を復活・引き上げ、経済のてこ入れを図り、その後の保守党政権もこの路線を継承しています。成功例とされるイギリスやドイツの最低賃金は、国内の平均的な賃金(賃金中央値)と比較した際、その比率が40%台後半から50%台に収まっています。
一方で、失敗例として注目されたのが韓国です。文在寅(ムン・ジェイン)大統領が掲げた「所得主導成長」政策のもと、2018年に最低賃金を時給6,470ウォン(約630円)から7,530ウォンへ、全国一律で約16%という大幅な引き上げを実施しました。しかし、この急激な引き上げは、多くの零細業者の廃業を招き、結果的に雇用が減少するなど、かえって所得格差を広げる結果となってしまったのです。これにより、担当の経済首席秘書官が更迭される事態にまで発展しました。アジア経済研究所の安倍誠氏は、企業競争力を高める規制緩和などの改革が遅れる中で、最低賃金のみを急激に引き上げたことが問題だったと指摘しています。
こうした各国の経験から、最低賃金をどこまで引き上げて経済に悪影響が出ないのかという点で、「60」という数字が分水嶺として注目されています。これは、ある地域の賃金中央値と最低賃金の水準を比較した際に、その比率が60%前後までは雇用を損なうなどの悪影響が出にくい、という説です。この説の根拠の一つが、米マサチューセッツ大学のデュベ教授らの最新研究です。彼らが1979年以降の全米各州における138もの最低賃金引き上げ事例を検証した結果、総じて雇用を傷めなかった事例の最低賃金は、賃金中央値の59%以内に分布していたことが分かりました。
日本の最低賃金は国際的に見てまだ低い水準
この「60%の分水嶺」という目安で見ると、韓国は2018年の最低賃金引き上げにより、比率が前年の50%台から65%に急上昇し、その結果、零細企業への打撃が大きくなったと推測されます。慢性的な失業率の高さに悩むフランスやポルトガルも、この比率が60%を超えています。それに対して、日本の最低賃金は賃金中央値の40%台前半と、国際的に見てまだ低い水準にあるのです。政府が現在の時給874円の最低賃金を「1,000円をめざし年3%」で引き上げたとしても、実現目標とされる2023年頃になっても、平均賃金の伸びが年1%にとどまったとしても比率は40%台後半にしかならない見込みです。
しかし、最低賃金の引き上げには細心の注意が必要です。東京大学の川口大司教授らの実証研究によると、国内での最低賃金引き上げは、労働に参加する人(労働参加率)を増やす効果はあったものの、一方で低学歴層の雇用や労働時間を減少させたという結果も出ています。企業はコスト増に敏感に反応するため、川口教授は、引き上げによって職を失う可能性がある人々への技能向上支援などの対策が非常に重要だと強調しています。
私は、最低賃金の引き上げは、単に格差を是正するだけでなく、経済全体を活性化させるための重要な政策だと考えています。最低賃金引き上げの狙いは、一つに「賃金上昇→所得増加→消費拡大」という好循環を生み出し、物価を押し上げること、そしてもう一つが、不採算部門の企業を市場から退出させ、人的資源をより有望な分野へとシフトさせることで、国全体の生産性を向上させることです。世界の事例や研究を深く学び、目先の痛みを避けながらも、長期的な経済成長という課題を見据えた、バランスの取れた政策が今こそ求められていると言えるでしょう。
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