あいちトリエンナーレ「表現の不自由展」が問う日本の表現の自由。大村知事が語る次回開催への決意と課題

2019年12月24日、愛知県の大村秀章知事が東京都内の日本記者クラブで記者会見を行い、大きな注目を集めました。大村知事は、激しい抗議活動により一時中止を余儀なくされた企画展「表現の不自由展・その後」を含む国際芸術祭「あいちトリエンナーレ」について、今後も継続して開催していくという並々ならぬ意欲を表明したのです。2010年に産声を上げたこの芸術祭は、今年で4回目を数える節目の年となりましたが、その歩みは決して平坦なものではありませんでした。

今回の騒動の大きな火種となったのが、元慰安婦を象徴する「平和の少女像」などの展示作品です。大村知事は会見の中で、異なる立場や価値観を認めようとせず、自身の意に沿わないものに対して徹底的に攻撃を加えるといった、現代の日本社会が抱える危うい現状に強い危機感を露わにしました。SNS上でもこの発言は波紋を広げ、「表現の自由を守るべきだ」という賛成意見から「公金を使うべきではない」という批判まで、これまでにない規模で議論が白熱しています。

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芸術監督の役割と運営体制のあり方、津田大介氏が突きつける現場のリアル

大村知事の会見に先立ち、芸術監督の大役を務めたジャーナリストの津田大介氏も同じ場所で登壇しました。ここで重要なキーワードとなるのが、あいちトリエンナーレの「運営体制」という点です。芸術監督とは、本来イベントのテーマ選定やアーティストの招待、展示の構成などを統括する、いわばオーケストラの指揮者のような存在を指します。しかし、県の検討委員会が次回に向けた提言の中で運営の見直しを挙げたことに対し、津田氏は現場の切実な葛藤を率直に語りました。

津田氏が指摘したのは、現場の責任者に実質的な裁量や決定権が十分に与えられていないという構造的な矛盾です。強いこだわりを持ってテーマを追求する人物であればあるほど、権限がない中で責任だけを背負わされる状況は、次期監督にとって極めて過酷なものになるだろうと警鐘を鳴らしました。私たちは、芸術という自由な表現の場を支えるための「プラットフォーム」が、いかに脆く、かつ調整の難しいものであるかを知る必要があります。

編集者としての私見を述べれば、今回の騒動は単なる一過性のトラブルではなく、日本が「寛容な社会」であり続けられるかどうかの試金石であると感じます。批判の自由は当然守られるべきですが、それが物理的な脅迫や執拗な攻撃に発展してしまえば、文化の多様性は失われてしまうでしょう。公的資金を投じる以上、透明性の確保は必須ですが、それと同時に「不自由」なものにこそ光を当てる芸術の精神を、私たちは冷静な目で見守り、議論を深めていくべきではないでしょうか。

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