現代でこそ当たり前となっている車の安全技術ですが、その発展の裏には先駆者たちの熱いドラマがありました。自動車内装部品の大手、河西工業で社長を務める渡辺邦幸氏の若き日の軌跡に迫ります。渡辺氏が1971年に日産自動車へ入社し、最初に配属されたのは「衝突実験グループ」という新設チームでした。当時の日本は、年間の交通事故死亡者が1万6000人を超え、まさに「交通戦争」と呼ばれる深刻な社会問題を抱えていた時代です。人命を救うための挑戦が、ここから始まりました。
車の安全対策が急務となる中、アメリカでは1968年1月より連邦自動車安全基準(FMVSS)が施行されていました。これは米国内で販売される車両に厳しい安全義務を課す法律で、日本からの輸出車にも全席シートベルトの装備などが求められるようになったのです。この最先端の課題に挑んだ渡辺氏のチームは、平均年齢が20代半ばという非常に若い組織でした。SNS上でも「これほど若い世代が日本の安全基準の礎を築いたとは驚きだ」と、その先進性に感銘を受ける声が上がっています。
当時は自動車の安全対策における専門家など存在せず、全員が手探りの状態でした。メンバーは日米の膨大な法律を読み解き、テスト機器での計測を繰り返す日々を送ります。何もないゼロの状態から自分たちの意思で道を切り拓く作業は、若き渡辺氏にとって大きな充足感に満ちていたそうです。しかし、せっかく作った試作車を壁に衝突させて破壊する仕事は、社内では「コストを跳ね上げる存在」として煙たがられ、他部署との衝突が絶えない「憎まれっ子」のポジションでもありました。
入社3年目となった1973年、渡辺氏は会社を代表して自動車工業会(自工会)の安全対策部会へ派遣されることになります。自工会とは、国内の自動車メーカーが協力して業界の発展や意見集約を行う重要な団体です。会議では、国の厳しい安全基準をそのまま導入するとコスト面で不利になる軽自動車メーカーと、乗用車メーカーとの間で激しい議論が巻き起こりました。規制の強化は、ある意味で企業の死活問題に直結するため、現場は混沌としていたのです。
うろたえる渡辺氏を救ったのは、隣に座るトヨタ自動車の先輩社員でした。その先輩は「自分が発言すれば議論は収まる」と不敵に笑い、見事に場をまとめ上げたのです。圧倒的なリーダーシップと業界の力学を目の当たりにした渡辺氏は、深い感銘を受けました。この時の「自分の発言が会社の意思になる」という緊張感ある経験が、その後の経営者としての強固な礎となったのは間違いありません。確固たる信念が未来の安全を作っていくのだと、深く実感させられます。
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