アサヒグループホールディングスを率いる小路明善社長兼CEOの執務室には、ひときわ存在感を放つ大きな風景画が飾られています。それは、画家の斎藤民雄氏が1991年に描いた「プラハ」という幅180センチメートル、高さ120センチメートルの大作です。チェコの首都であるプラハの歴史地区は、街全体が世界遺産に登録されるほど美しい中世ヨーロッパの街並みを残しています。本作には、ブルタバ川やカレル橋、そしてプラハ城など、現地を代表する美しい情景が鮮やかに描き出されているのです。
小路氏がこの古都を訪れたのは、2017年のことでした。当時、アサヒはビール世界最大手であるアンハイザー・ブッシュ・インベブから、中東欧のビール事業を買収する決断を目前に控えていたのです。インベブ社は中東欧を統括する拠点をプラハに構えており、小路氏はその事業の責任者であったパオロ・ランザロッティー最高経営責任者と会談するために現地へ向かいました。案内されたオフィスの窓からは、奇しくもあの絵画に描かれていたカレル橋が遠くに見えていたといいます。
訪問の目的は、買収後も彼がアサヒの中東欧事業を任せるに足る人物かを見極めることでした。経営の理念や今後の事業戦略について3時間ほど熱く議論を交わした小路氏は、彼なら十分に大役を果たしてくれると確信したそうです。この熱い対談のエピソードに対し、SNS上では「経営トップ自らが足を運び、相手の器を見極める姿勢に感銘を受けた」「3時間の対話で未来を決める決断力が凄まじい」といった、その熱量に圧倒される声が多数寄せられています。
実際に買収が成立した後、ランザロッティー氏は期待を上回る素晴らしい成果を出し続けています。イタリア系イギリス人である彼は非常に陽気な人柄で、今では小路氏とビールを片手に肩を組んで歌うほどの深い絆で結ばれました。買収が無事に決定した際、小路氏は本社ビルに眠っていた例の絵画を社長室へと移したそうです。まさに絵に描かれたカレル橋が、国境を越えた2人のトップランナーを引き合わせてくれた運命の架け橋のように感じられたのでしょう。
小路氏は、トップに立つ者には「先見力」「決断力」「実行力」という3つの能力が不可欠であると確信しています。日本企業にとって未開の地に近い東欧での挑戦には、経済状況や文化、市民の嗜好、さらには親日度に至るまで、膨大なデータを徹底的に分析して臨みました。しかし、最終的に巨額の投資を決断させたのは、現地で出会った信頼できるリーダーの存在だったのです。確かなデータと人への信頼が、企業の歴史を塗り替える大きな原動力となりました。
アサヒグループは、ここ4年間で欧州やオーストラリアを舞台に、総額2兆4000億円にのぼるM&A(企業の合併・買収)を成立させてきました。かつて国内中心だった「ドメスティック企業」は劇的な変貌を遂げ、今や事業利益の4割を海外が稼ぎ出し、全従業員2万8000人の半数が外国籍という超グローバル企業へと進化しています。M&Aとは、単なる会社の買い取りではなく、異なる文化や強みを融合させて新しい価値を生み出す成長戦略なのです。
世界中を飛び回る小路氏ですが、常に海外に滞在できるわけではありません。日本での激務の合間にふと社長室の「プラハ」の絵画を眺めるとき、あの日の情熱的な商談や、海を越えて奮闘する仲間の姿へと思いを馳せているのです。1枚の絵画は、単なるインテリアではなく、挑戦の記憶とグローバルな絆を呼び覚ます、経営者にとっての「こころの玉手箱」なのかもしれません。アサヒの次なる世界戦略からも、目が離せそうにありませんね。
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