子どもの「そういうこと」力はなぜ消える?大人が失った人生を楽しむ秘訣【武田砂鉄の視点】

皆さんは、子どもの頃の無邪気な遊びを覚えていますでしょうか。私は突然、小学生時代に友達と興じた**「白いところだけを歩いて帰る」というゲームを思い出しました。それは、横断歩道の白い部分や、車道と歩道を区切る白線の上だけを選んで歩くという、シンプルなルールです。誰が提案したかは定かではありませんが、学校から自宅までの約20分間の帰り道を、このルールで楽しんでいた時期があったのです。

しかし、冷静に考えると、帰路の全てを白い部分だけで踏破することは、物理的に不可能です。ですから、この遊びはすぐに「白いところがあればそこを通る」という程度のゆるいルールへと変化していきました。途中で「ここは仕方ないから白じゃなくても大丈夫」という独自の例外ルールが設けられていたに違いありません。それにも関わらず、私たちは二人の中で「今日は白いところだけを通って帰ってきた」という特別な達成感を共有し、その日を楽しく過ごしていたのです。

ところが、大人になると、このような「そういうことにしておく」力が著しく衰えてしまうように感じます。例えば、実際に白いところを歩いたのが全体の3割や4割程度だった場合、大人はすぐに「これは『白いところだけを歩いた』とは言えない」と自己分析し、結論づけてしまうでしょう。自分自身を意図的にだますこと、あるいは都合よく解釈することが難しくなるのです。すぐに現実的になり、冷静になってしまうのでしょう。

子どもの頃は「白いところを歩いてきたんだ」という楽しい結論を共有できれば、それだけで特別な経験をしたとにこやかに過ごすことができました。「いや、実際のところはどうだったのか**」と、過度に分析し始めると、その場は途端につまらなくなってしまいます。つまり、「そういうことにしておく」という柔軟な発想こそが、子どもの頃の物事を楽しむ力の源泉だったのではないでしょうか。

この「そういうことにしておく」能力こそ、人生を豊かにする鍵だと私は考えます。子どもの「無邪気」さとは、この**「仮定を楽しむ力」に裏打ちされているように思うのです。であれば、逆に、大人は「邪気」に満ちあふれているということになってしまうのでしょうか。大人は自由に使えるお金が増え、行動の範囲は広がるはずです。にもかかわらず、この「そういうことにしておく」というセンスを失うことで、自ら可能性の幅を狭めてしまっているのではないでしょうか。

この記事が公開された2019年6月26日頃のSNSでは、この記事で描かれている子どもの頃の遊びについて「やった!」「懐かしい」といった共感の声が多数寄せられていました。特に、「白いところしか通らない、というルールで、マンホールの縁の白線の上を歩いたのを思い出した」「側溝のフタのコンクリートは白判定でOKとか、自分たちでルールを作ってました」など、地域や世代を超えた共通の遊びであったことが窺えます。

また、記事の核心である「大人になると冷静になりすぎてしまう」という点については、「まさにそう。少しでも現実と違ったら、すぐに諦めてしまう**」「子どもの頃のあの感覚、本当に大事だったんですね」といった、失われた柔軟性への惜しむ意見も多く見受けられました。大人になってからこそ、あの**「そういうことにしておく」という遊び心を取り戻すことで、日常の中に小さな楽しみ**を見つけ出せるのではないでしょうか。今、試しに「白いところを歩いてみよう」と試みたのですが、結局、途中でやめてしまいました。

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