2016年に開催された伊勢志摩サミットを契機に、三重県産の食材へ向けられる世間の視線は一気に熱くなりました。外務省から「地元の味をふんだんに取り入れてほしい」との要請を受けた同ホテルの総料理長である樋口宏江さんは、これを機に自ら産地へ赴くようになったそうです。
伊勢海老や鮑が揚がる漁港、伝統的なかつお節のいぶし小屋、そして瑞々しいミカン農家など、樋口さんは生産者のもとへ精力的に足を運んでいます。作物の背景にあるこだわりや、地元ならではの贅沢な食し方を学ぶ時間は、彼女の料理に深い奥行きを与えているのでしょう。
SNS上では「サミットの料理に感動した」「地元の食材がこれほど美しく化けるとは」といった称賛の声が今も絶えません。しかし、華やかな舞台の裏側で、樋口さんはある重大な危機に直面しています。それは、ホテルの象徴とも言える伝統の「鮑ステーキ」に使う天然鮑の深刻な減少です。
海女さんの高齢化に伴う減少に加え、海水温の上昇によって鮑の主食である海藻が枯渇する海域の砂漠化現象、いわゆる「磯焼け(いそやけ)」が影響しています。地元産が手に入らなくなれば、他県産に頼らざるを得ないという厳しい現実が、すぐそこまで迫っているのです。
「それでもお客様は来てくださるのか」という問いかけは、料理人としての誇りと真価をかけた挑戦に他なりません。そこで樋口さんは、伝統を守りながらも、新たな感性を吹き込んだ革新的なフランス料理の形を模索し始めています。
サイズが不揃いな鮑でも均一に美味しく提供できるよう、パイ包み焼きという新たな手法を導入しました。さらに、名物の伊勢海老クリームスープは、ゲストの目の前で注ぐ演出へと進化させています。テーブルに広がる濃厚な香りは、まさに彼女ならではの粋な計らいです。
こうした海の幸だけでなく、原木キノコを使ったコンソメスープや、備長炭で焼き上げる鹿肉など、山の恵みを活かす試みも注目されています。これらは限定の「賞味会」で披露され、生産者の生の声とともに、次の看板メニューとしての未来を育んでいる最中です。
2020年01月31日現在、総料理長として6年目を迎えた樋口さんですが、かつては厳しい厨房の現実を前に、幾度も悔し涙を流したといいます。指示を待つのではなく、先を見越して自ら行動する姿勢を身につけたことが、女性として初のトップへ登り詰める原動力となりました。
現在、料理人の門を叩く女性は増加傾向にあるものの、過酷な労働環境や育児との両立の難しさから、志半ばで離職してしまうケースが後を絶ちません。樋口さん自身も家族の支えがあってこそ継続できたと語る通り、業界全体の構造改革は急務であると言えます。
性別を問わず、子育てをしながら第一線で活躍できる環境づくりこそが、次世代の食文化を豊かにする鍵となるでしょう。伝統を受け継ぎつつ、時代の変化に寄り添う樋口さんの飽くなき挑戦は、これからの飲食業界に明るい一石を投じるに違いありません。
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