【MoMA誕生秘話】ピカソやデュシャンを救った美術館!ニューヨークが近代アートの聖地になった歴史的理由とは?

現代アートの殿堂として世界中から愛されるニューヨーク近代美術館、通称「MoMA」。実はこの美術館が、第2次世界大戦という激動の時代に、ナチスの迫害から多くの天才芸術家たちを救い出す「命の砦」だったことをご存じでしょうか。ネット上でも「単なる美術館ではなく、芸術の避難所だったとは驚き」「歴史の重みを感じる」と、そのドラマチックな背景に大きな反響が寄せられています。今回は、アートの都がパリからニューヨークへと移り変わった知られざる舞台裏に迫りましょう。

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戦火に抗うアーティストたちとMoMAの決断

1929年の世界大恐慌の直後に設立されたMoMAは、常に社会の動きとシンクロしながら歩んできました。1940年、ヨーロッパが戦争の渦に巻き込まれる中、メキシコの画家ホセ・クレメンテ・オロスコは同館に招かれ、壁画「急降下爆撃機と戦車」を制作します。兵器に支配される人間を描いた不気味な作品は、科学技術を暴力に変えてしまう人類への強い警告でした。彼を米国に呼び寄せたのは、美術館の創設者であるアビー・アルドリッチ・ロックフェラー氏です。

また、ピカソの歴史的名作「ゲルニカ」も、MoMAに命を救われた作品の一つと言えるでしょう。ナチスによる無差別爆撃の惨状を描いたこの大作は、ヨーロッパでの戦火を避けるため、カンバスを丸めた状態でアメリカへと運ばれました。ピカソ自身がナチス公認の独裁政権下にあった母国スペインへの返還を拒んだため、同作は長らくMoMAに委託され、1981年まで大切に保管され続けたのです。

芸術家を救え!初代館長夫妻による命がけの難民支援

この奇跡的な救出劇の影には、初代館長であるアルフレッド・バー・Jr氏と、その妻マルガ氏の並外れた奮闘がありました。名門大学で美術史を修め、27歳の若さで館長に就任したバー氏は、絵画だけでなく写真や映画、デザインなど、当時はまだ芸術と認められていなかった分野にも光を当て、現在のMoMAの基礎を築いた先駆者です。彼は1932年に渡欧した際、独裁政権による前衛アートの検閲や弾圧を目の当たりにし、強い危機感を抱きました。

「前衛アート(アヴァンギャルド)」とは、それまでの伝統的なルールにとらわれず、革新的で実験的な表現を試みる芸術運動のことです。ナチス侵攻後、バー氏のもとには亡命を希望する画家たちからの悲痛な手紙が殺到します。そこで1940年に結成された緊急救助委員会(ERC)と連携し、夫妻は独自の救出作戦を開始しました。複雑な難民申請書類の作成や経済的保証の証明に奔走したのは、妻のマルガ氏だったといいます。

近年の研究では、あのマルセル・デュシャンが1942年6月にフランスのマルセイユ港を出発し、無事に渡米できたのも、バー夫妻が用意した数知れない紹介状や保証書のおかげだったことが判明しています。まさに、彼らの情熱がなければ、現代の美術史はまったく違うものになっていたかもしれません。

パリからニューヨークへ、受け継がれるモダンアートの命脈

1942年、ニューヨークのギャラリーでは、ヨーロッパから逃れてきた天才たちが一堂に会する「亡命芸術家」展が開催されました。モンドリアンやシャガール、マックス・エルンストといった、まさに美術教科書の主役たちがマンハッタンに集結した光景は、アートの中心地がパリから完全に移動したことを世界に印象づけました。彼らは過酷な運命に翻弄されながらも、新天地で連帯し、表現の自由を守り抜いたのです。

戦争という巨大な暴力の前に、表現者はあまりにも無力に見えるかもしれません。しかし、当時のMoMAや関係者たちが示したのは、国家や思想の枠を超えて「美と自由」を守り抜くという強固な意志でした。単に作品を展示するだけでなく、困難な時代にこそ門戸を開き、多様性を受け入れるハブとなること。それこそが、ニューヨークが名実ともに世界のモダンアートの発信地へと躍進できた、最大の理由ではないでしょうか。

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