1994年(平成6年)2月11日に開催された日米首脳会談で、当時の細川護熙総理大臣は、ビル・クリントン米大統領から予期せぬ重大な打診を受けることになります。それは、北朝鮮の核開発を阻止するため、もしアメリカ軍が周辺海域を海上封鎖する事態になった場合、自衛隊は機雷掃海活動で協力できるのか、という極めてセンシティブな問いかけでした。主要議題を経済問題と想定していた日本政府側は、この安全保障上の問題について十分な準備がなく、総理は即答を避け、回答を留保せざるを得ない状況に陥りました。
帰国後、細川総理の指示を受けた当時の内閣官房副長官であった筆者は、内閣情報調査室長、安全保障室長、防衛局長、北米局長、警備局長、そして内閣法制局次長といった政府高官らを極秘裏に集め、アメリカ軍の軍事行動を支援するために日本が具体的に何を行えるのか、検討を始めました。海上封鎖時の機雷掃海は事実上の戦闘行為とみなされるため、当時は憲法上の制約が非常に厳しかったのです。現在の安全保障関連法が整備されていれば、「存立危機事態」と認定し、集団的自衛権を行使することで協力が可能となるでしょう。
しかし、当時はアメリカ軍が日本の空港や港湾を緊急時に使用できるかさえ、法的に整理されていませんでした。検討の結果、内閣法制局は機雷掃海活動について、「憲法が容認しない集団的自衛権の行使に該当するため、自衛隊の派遣は不可能である」との見解を示します。日本側は、アメリカに対して「法制度上、協力は困難である」と回答せざるを得ませんでした。結局、アメリカはこの海上封鎖の実行を見送ることになります。
この北朝鮮核危機は、6月のジミー・カーター元米大統領の訪朝によって回避されましたが、筆者は「あの時もし海上封鎖を決行していれば、北朝鮮の核開発を未然に阻止できたのではないか」と回想することもあるようです。この一件は、冷戦終結後、ソビエト連邦という共通の脅威が消滅し、その存在意義が問われていた日米同盟に、日本周辺有事への対応という新たな、そして非常に重要な役割を与えることになりました。この出来事が、後の「日米安保共同宣言」や「日米防衛協力のための指針」(ガイドライン)の改定へと繋がり、日米安保体制をアジア太平洋地域の安定に貢献する体制へと再構築する、いわゆる「日米同盟の再定義」へと結実していくことになります。これは、日本の安全保障政策にとって歴史的な転換点となったと言えるでしょう。
混沌を極めた細川政権の終焉と羽田内閣の短命
安全保障上の課題が山積する一方で、国内の政治状況もまた混迷を極めていました。細川政権は当初、政治改革の実現を最優先課題としたため、1994年度(平成6年度)予算案の本格的な審議は3月に入ってからという異例の遅れをみせます。予算委員会では、自由民主党が、細川総理に対する佐川急便からの資金供与問題の追及を強めました。筆者自身は、この問題を知事選挙に出馬する際の古い話だと捉えており、「専門家に調査を依頼すれば良い」と考えていたそうです。
しかし、追及が具体性を帯び、資金の返却日などの事実関係を問いただされるうちに、総理の答弁は次第に一貫性を失っていきました。そして、4月8日朝、筆者が執務室を訪れると、細川総理から突然「辞任する」と告げられたのです。筆者は大変驚いたものの、総理は自らのプライドの高さから、佐川問題への追及に嫌気が差したのかもしれないと推測しています。また、政治改革という自身の最大の使命を成し遂げたという達成感も、決断の背景にあったのではないでしょうか。
細川総理の辞任後、後継者としては羽田孜副総理・外務大臣が有力視されていましたが、連立政権内の調整が難航します。羽田氏が正式に首相指名を受けたのは、辞任から大幅に遅れた4月25日のことでした。羽田総理は官邸の執務室に入ったものの、すぐには組閣作業に取りかかることができません。連立与党内において、日本社会党を排除する動きが進んでいたため、連立の枠組みそのものが流動的だったからです。
連立与党間の調整を待つ間、羽田総理と筆者は執務室で組閣準備を進めていました。社会党からの閣僚候補者名簿がなかったため、総理が複数のポストを兼務する案も浮上します。筆者はこの案に対し、「国民に対する責任を果たせない」として、すべての閣僚ポストを一旦埋めておき、もし社会党が連立に復帰した場合には入れ替えを行うという現実的な提案をしました。結果的に社会党は連立を離脱し、4月28日、羽田内閣はいつでも内閣不信任決議案が可決されかねない、不安定な少数与党政権として発足する羽目になりました。
予算案が成立した6月23日、最大野党である自由民主党は、満を持して内閣不信任案を提出します。羽田総理は当初、衆議院の解散を検討したようですが、新生党代表幹事であった小沢一郎氏との話し合いの結果、6月25日に内閣総辞職を決断することになります。もっとも、この時点で羽田総理は、6月29日の首相指名選挙で自身が再指名されることに期待を抱いていた様子だった、と筆者は述懐しています。
🚨SNSの反響:不安定な連立政権への厳しい目線
この細川・羽田政権の内幕に関する記事は、当時の政治の不安定さを浮き彫りにしています。特にSNS上では、冷戦後の国際情勢が緊迫する中で、日本の政権が国内の政争と連立内の対立によって短命に終わったことへの厳しい意見が多く見受けられます。「日米首脳会談で即答できないなんて、日本の外交・安全保障体制が当時いかに脆弱だったかがわかる」といった指摘や、「政治改革の追求と政権運営の両立の難しさが伝わってくる。細川政権の崩壊は佐川問題というより、連立の限界だったのではないか」といった分析も目立ちます。また、羽田内閣がわずか2ヶ月で総辞職に追い込まれたことに対し、「国民不在の政局だった」と批判する声もありますが、一方で「不安定な状況下で、首相の職責を全うしようとした苦労も伺える」といった同情的な意見も一定数見られました。この一連の出来事は、日本が今後、世界の中でどのような安全保障の役割を担うべきか、そして連立政権のあり方について深く考えるきっかけを与えていると言えるでしょう。
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