2019年08月07日、広島はあの日から74年目となる夏を迎えました。爆心地から2.8キロの地点で被爆した岡田恵美子さん(82歳)は、30年という長い歳月をかけて、自身の壮絶な体験を語り続けています。8歳だったあの日、家族と食卓を囲んでいた平穏な朝は、一瞬の閃光によって永遠に奪われてしまいました。弟さんが空を見上げ「日本の飛行機だ」と手を振った直後、世界は「ピカーン」という音と共に真っ白な地獄へと変貌したのです。
爆風によって自宅の外まで吹き飛ばされた岡田さんの目に飛び込んできたのは、空を真っ赤に染め上げる「狂ったような炎」でした。全身にガラスの破片が突き刺さり、血を流すお母様と共に必死で逃げ惑う中、一人の幼い女の子が助けを求めて岡田さんのもんぺを掴みました。しかし、恐怖に支配されていた少女時代の彼女は、その手を振り切り、振り返ることなく走り去ってしまったといいます。その決断が、今もなお彼女の心を締め付ける消えない自責の念となっています。
戦後、岡田さんを待ち受けていたのは、激しい腹痛や嘔吐といった放射線障害による苦しみでした。現在でも夕焼けなどで空が赤く染まるたび、彼女の脳裏には「お母ちゃん」と泣き叫ぶ子供たちの声や、皮膚が焼けただれて白い骨が露出した人々の姿が鮮明に蘇ります。「誰一人として救うことができなかった」という後悔は、あまりにも重く、深いものです。しかし、その痛みこそが、彼女を平和への使命感へと突き動かす原動力となりました。
SNS上では、岡田さんの活動に対して「教科書では学べない生の声に涙が止まらない」「当時の恐怖が伝わり、平和の尊さを再確認した」といった感動の声が数多く寄せられています。一方で、戦争を知らない若い世代に当時の実態を伝えることの難しさも浮き彫りになっています。修学旅行で広島を訪れた小学生から、戦時中の飢えの話に対して「なぜコンビニに行かなかったの?」と無邪気に問われたエピソードは、時代の隔絶を象徴しているかのようです。
ここで「被爆者」という言葉について少し解説しましょう。これは、1945年の原子爆弾投下により、直接被爆したり、投下直後の市街地に入って残留放射線を浴びたりした方々を指します。放射線は目に見えませんが、細胞を傷つけ、数十年後にも健康被害を及ぼす恐ろしい性質を持っています。岡田さんのような「語り部」は、その目に見えない恐怖と命の尊さを、実体験という重みを持って私たちに伝えてくれる極めて貴重な存在なのです。
現在、広島平和文化センターに登録されている証言者は38名まで減少し、高齢化や認知症の進行によって活動の継続が困難になるケースが急増しています。岡田さんは「子供は地球の宝であり、二度と戦争の犠牲にしてはならない」という信念を胸に、衰えゆく体力を振り絞って教壇に立ち続けています。時代がどれほど移り変わろうとも、私たちが決して忘れてはならない歴史がそこにはあり、彼女の言葉は未来への遺言のように響きます。
私は、岡田さんのように自らの傷口を広げるような思いで過去を語る方々の存在に、深い敬意を抱かずにはいられません。加害者や被害者という枠組みを超え、一人の人間として「あのような地獄を繰り返してはならない」と訴える姿は、現代に生きる私たちが受け継ぐべきバトンそのものです。無知は時に残酷ですが、知ることは平和への第一歩となります。彼女の震える声に耳を傾け、その想いを自分事として捉える想像力を持ち続けたいものです。
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