2019年3月に名古屋地方裁判所岡崎支部が下した、実の娘に対する性的暴行事件での無罪判決が、司法界だけでなく、SNSを含む一般社会に大きな波紋を広げています。この判決は、準強制性交等罪の成立に必要とされる「抵抗困難な状態」の立証について、そのハードルの高さを示しているとされ、性犯罪の被害に遭われた方々や専門家から厳しい批判が上がっている状況です。この問題は、日本の性犯罪に関する刑法のあり方そのものに対する、重要な議論を巻き起こしています。
そもそも準強制性交等罪とは、相手の心神喪失、あるいは抗拒不能(心理的・物理的に著しく抵抗が困難な状態)に乗じて性的暴行を加える犯罪のことです。以前は「準強姦罪」と呼ばれていましたが、2017年7月に施行された改正刑法で名称が変更されました。この罪が成立するためには、「被害者の同意がなかったこと」と「被害者が抵抗困難な状態に乗じて犯行に及んだこと」という二つの要件を満たす必要があります。典型的には、酒や薬物で意識を失った場合などが「抵抗困難」とされてきました。
問題となっている岡崎支部の判決は、被告の男が2017年に当時19歳だった娘に性的暴行を加えたとされる事件に関するものです。判決は、娘の同意がなかったことは認め、「極めて受け入れがたい性的虐待だ」と指摘しています。しかし、娘さんが中学2年生の頃から継続的に被害に遭っていたにもかかわらず、「抵抗困難な状態」には当たらないと結論づけてしまいました。過去に娘が性的な行為を拒否した時期があったことなどを根拠に、「人格を完全に支配され、男に服従するしかない関係ではなかった」と判断したためです。
これに対し、検察側は判決を不服として控訴に踏み切っています。検察幹部からは「抵抗困難の基準を不当に厳しく捉えている」と強い批判の声が聞かれます。事実、同様に立証のハードルの高さをうかがわせる司法判断は他にも存在します。例えば、同年3月の福岡地方裁判所久留米支部の判決では、酒に酔った女性に乱暴したとして起訴された男が、女性が目を開けたり、声を上げたりした点を理由に「抵抗困難な状態であると男が認識し、それに乗じて及んだとはいえない」とされ、無罪となりました。
性被害者の「諦め」と司法判断のギャップ
こうした相次ぐ無罪判決を受けて、性犯罪被害に遭われた方々からは、司法が被害の実態を理解していないことへの強い憤りが噴出しています。一般社団法人Springの代表理事であり、ご自身も実父からの被害経験を持つ山本潤さん(45歳)は、「加害者にどれだけ抵抗できるかは、状況や個人によって異なる」と訴えます。さらに、何度も暴行を受けると、抵抗する気力が失われ、諦めの精神状態に陥ってしまうという被害の現実を強調されています。この「諦め」の状態を、裁判所が示すような「抵抗」がないこととして捉えてしまうのであれば、被害者の真の苦悩は伝わらないでしょう。
甲南大学法科大学院の園田寿教授(刑法)は、岡崎支部の判決について、数年にわたる意に反する性行為によって抵抗する気力が失われた状態であり、当時は支配服従関係で抵抗困難な状態だったと考えるべきであると指摘しています。従来の判例と照らしても、この基準はあまりに厳しすぎるという見解を示されています。抵抗を続けることが困難になる状況は、決してまれなケースではありません。精神的な支配や心理的な重圧によって「抵抗できない状態」に陥ることは、十分にあり得る現実なのです。
この司法判断の厳しさが、SNS上でも大きな反響を呼んでいます。多くのユーザーが「抵抗できなかったのは、まさしく支配されていたからではないか」「被害者に完璧な抵抗を求めるのは理不尽だ」といった意見を投稿し、判決への疑問や、被害者への共感を表明しています。この性犯罪のあり方に対する国民の意識と、従来の法解釈との間に、大きな隔たりが生じていると言えるでしょう。
「抵抗困難」要件の撤廃と今後の法改正議論
山本さんをはじめとする性犯罪被害者の方々は、相次ぐ無罪判決に危機感を抱き、2019年5月中旬、法務省に要望書を提出されました。その内容は、準強制性交等罪の要件である「抵抗困難」の撤廃を含めた、刑法全体の抜本的な見直しを求めるものです。これは、被害者の証言だけでは立証が難しい「抵抗困難」という要件が、真実の性被害を罰することを妨げているという切実な思いに基づいているに違いありません。
一方で、抵抗困難の要件そのものの撤廃には、慎重な意見も存在します。園田教授は、「同意の有無だけが要件になると、判断の根拠が曖昧になり、冤罪(えんざい)が増える恐れがある」と懸念を示されています。性行為が不同意であったこと、すなわち「No」の意思表示が明確であったことをどのように証明するのか、という点には、確かに難しい問題が残るでしょう。しかし、被害者の意に反する性行為を、より適切に罰するための法制度は喫緊の課題です。
日本大学大学院の前田雅英教授(刑法)は、岡崎支部の判決が従来の法解釈の枠を決定的に超えているとまでは言えないとしながらも、性犯罪に対する国民の意識とは乖離している可能性を指摘されています。幸いなことに、近年は性犯罪被害者の視点を重視する司法判断が増える傾向にあるとのことで、この岡崎支部の判決も、上級審である控訴審で結論が見直される可能性が十分にあると期待されています。今回の波紋を機に、法解釈だけでなく、刑法そのものが、時代の要求と被害者の実態に即した形へと変わっていくことが強く望まれます。
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