2019年09月18日、世間は翌年に控えた東京オリンピックの話題で持ち切りですが、街中で見かける「ある形式」に違和感を抱いている方も少なくないはずです。それは、懸賞やキャンペーンの応募条件として設定されている、あまりにも簡単すぎるクイズの存在です。「2020年に開催されるスポーツの祭典は、オリン○ック?」といった、答えが明白な問いに対し、私たちは一体どのような顔をして向き合えば良いのでしょうか。
例えば、お湯を注ぐだけで完成する麺類を「1.カップラーメン」「2.コップラーメン」などの選択肢から選ばせるような設問も散見されます。このような「誰でも分かるクイズ」は、一種の慣習として深く根付いていますが、正直なところ、誰が何の目的で考案しているのか不思議でなりません。あえてボケた回答を選んで応募したとしても、それは当選候補から外れるだけで、誰かに笑いを届けるわけでもないという、虚しい結末が待っています。
SNS上でも「このクイズに何の意味があるのか」「馬鹿にされている気分だ」といった冷ややかな意見が散見される一方で、「気軽に参加できて良い」という声もあり、反応は二分されているようです。制作者側は、私たちが「答えは『ピ』に決まっているじゃないか!」と膝を打って喜ぶ姿を想像しているのでしょうか。しかし、知性を軽んじられているような感覚に、思わず口を一文字に結んでしまう人が一定数存在することも事実でしょう。
知識の消費が生む空虚さと、思考することの真の価値
テレビをつければ、毎日のようにクイズ番組が放送され、難読漢字やトリビアを即答する大学生がスターのように扱われています。知識を多く蓄えていることが、それだけで人間の価値を決定するかのような風潮すら感じられるほどです。もちろん、知的好奇心を満たすことは素晴らしい経験ですが、単なる「正解の検索」に終始して、その先にある本質を見失っていないかという懸念を私は抱かずにはいられません。
本来、知識というものは、それを使って何かを論じたり、新しい価値を創造したりするために存在する「道具」のはずです。情報を引き出すだけの行為に熱中するのではなく、得た情報をどう解釈し、自身の考えを深めていくかというプロセスにこそ、人間としての知性が宿るのではないでしょうか。多くの人が「クイズに答えてスカッとしたい」という短期的な快楽を求めている現状は、どこか思考停止に近い危うさを孕んでいる気がします。
「オリン○ック」という空欄を埋める作業が「最もハードルの低いクイズ」として社会に受け入れられているのだとしたら、それは大人の知性に対するある種の「甘え」かもしれません。こうした些細な違和感をスルーせず、「そもそもこれは必要なのか」と問い直す姿勢を大切にしたいものです。利便性や分かりやすさばかりが追求される今だからこそ、あえて立ち止まって考えることの贅沢さを、私は噛み締めていたいと考えています。
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