青と緑が溶け合うような瑞々しい色彩に、思わず目を奪われます。1912年に生まれた画家、松本竣介が1937年8月に完成させた「郊外」という作品です。草原で無邪気に遊ぶ子どもたちや、まっすぐに伸びる木々が描かれたこの画面からは、当時の不穏な空気は微塵も感じられません。しかし、この平穏な風景が描かれたわずか1カ月前には、日中戦争の引き金となる盧溝橋事件が発生していました。
時代が戦禍へと突き進む中、竣介は25歳という若さで自らの芸術と向き合っていました。彼は私生活でも大きな転機を迎えており、結婚を機に佐藤姓から松本姓へと改め、東京の下落合に新たなアトリエ「綜合工房」を構えます。そこで彼は絵筆を握るだけでなく、自ら月刊誌「雑記帳」を創刊するという、驚くべき行動力を見せたのです。
喪失を越えて育まれた、揺るぎない「生への意志」
竣介の強靭な精神の源流を辿ると、中学時代に経験した過酷な運命に行き着きます。入学直後に流行性脳脊髄膜炎を患い、彼は聴覚を完全に失ってしまいました。音のない世界に取り残されながらも、彼は絶望に屈することはありませんでした。独学で膨大な読書を重ね、哲学や政治、科学といった幅広い教養を身につけていったのです。
次男の松本莞さんが大切に保管していた日記には、長男の早すぎる死に直面した際の痛切な記録が残されています。竣介はその深い悲しみの中で「いかなることにも卑劣であってはならぬ」という、自分自身への峻厳な命令を感じ取ったと記しました。どんな困難も真正面から受け止め、逃げずに生き抜くという彼の人生哲学は、この時すでに確立されていたのでしょう。
彼の創刊した「雑記帳」には、宮沢賢治や林芙美子といった錚々たる顔ぶれが寄稿していました。専門的な知識がなければ理解できないような閉鎖的な芸術のあり方を嫌い、エッセーという形を通じて、日常の中に「科学的批評精神」を根付かせようと試みたのです。それは独裁や狂気が忍び寄る時代に対し、個人の冷静な判断力を守ろうとする静かな抵抗でもありました。
戦時下の肖像に込められた、芸術家の覚悟
時局が厳しさを増す1941年、竣介は美術雑誌に「生きてゐる画家」という文章を投稿します。国策に沿った絵を描くよう迫る軍部の主張に対し、芸術の価値は人間としての本源的な問題にこそあると、命がけの反論を試みたのです。この勇気ある行動により、彼は当局からの監視を受けることになったと伝えられています。
同年、二科展に出品された「画家の像」は、これまでの明るい作風とは一線を画す緊張感に満ちています。不自然に体をねじり、何かを凝視する妻と子、そして硬い表情で遠くを見つめる画家の姿。聴覚障害ゆえに召集されず、銃後を守るしかなかった青年の、孤高の決意が滲み出ているようです。
激動の時代にあって、松本竣介は決して瞳を逸らしませんでした。彼の作品が今なお私たちの心を揺さぶるのは、それが単なる風景画や肖像画ではなく、極限状態において「人間らしくあること」を貫こうとした、一人の知性の記録だからではないでしょうか。
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