高さわずか25センチメートルほどの人形が、まるで意思を持っているかのように髪を梳き、優雅に歩き出す光景をご存知でしょうか。台湾が世界に誇る伝統人形劇「布袋戯(ポーテーヒ)」の至宝、陳錫煌(チェン・シーホァン)氏は、御年88歳を迎えた現在も現役で舞台に立ち続けています。日本でいう「人間国宝」に相当する認定を受けた巨匠が操る人形は、観客が思わず息を呑むほど滑らかで、血の通った人間のような躍動感に満ち溢れているのです。
布袋戯とは、180センチメートルほどの小さな舞台で繰り広げられる、中国発祥の伝統芸能です。人形の頭や手足は繊細な木彫りで作られており、胴体部分は袋状の布製衣装で構成されています。この「袋」の中に人形師が手を差し込み、指先だけで複雑な感情を表現するのです。かつては「廟(びょう)」と呼ばれる台湾の神社仏閣にて、神様へ捧げる奉納行事として親しまれ、「西遊記」や「三国志」といった物語が庶民の心を熱狂させてきました。
父との葛藤を越えて導き出した「究極の指捌き」
陳氏は1931年に生を受け、12歳という若さで父・李天禄(リ・ティエンルー)氏の劇団へと足を踏み入れました。父は世界的な映画監督、侯孝賢(ホウ・シャオシェン)の作品で主役を演じたほどの伝説的人物です。しかし、伝統の継承は決して甘いものではありませんでした。多忙を極める父から直接技を教わる時間はなく、陳氏は父の背中を見て、自らの技を盗み、独学で磨き上げるしかなかったといいます。名字が異なる父子ゆえの孤独や葛藤が、彼を唯一無二の表現者へと変えたのでしょう。
驚くべきは、その指先の技術です。人差し指を人形の頭部に入れ、残りの4本の指で手足を自在に操ります。恥じらう女性の仕草を表現する際、親指を肩へ滑らせる繊細な動きは、もはや芸術の域に達しています。陳氏は単なる演者にとどまらず、人形の彫刻から衣装の刺繍まで自ら手掛ける徹底ぶりです。既製品では満足できないという職人魂が、手の大きさに完璧にフィットした「生きた人形」を生み出し、欧米の観客からも驚嘆の声が寄せられています。
絶滅の危機を救うため、88歳の挑戦は続く
SNS上では「人形とは思えない色気に鳥肌が立った」「これぞ真の職人技」といった感動の声が広がっていますが、その一方で、伝統の火は消えかかっています。娯楽の多様化や、台詞に使われる「台湾語」を解する若者の減少により、布袋戯は存続の危機に瀕しています。そこで陳氏は、2009年に78歳という高齢で自身の劇団を旗揚げしました。自身の技術を次世代に繋ぐこと、そして観客を育てること。この二つの使命が、彼を突き動かしているのです。
この孤高の歩みを10年間にわたって記録したドキュメンタリー映画『台湾、街かどの人形劇』が、いよいよ2019年11月30日から日本で公開されます。劇中の陳氏は、旅に出る際に「ポエ」と呼ばれる神託の道具を使い、守護神である「田都元帥」にお伺いを立てるなど、今も伝統を重んじて生きています。古き良き文化をただ守るだけでなく、新しい世代へ門戸を開こうとする彼の情熱は、国境を越えて私たちの魂を揺さぶるに違いありません。
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