ワインショップ「エノテカ」の創業者として知られる広瀬恭久氏は、1949年12月24日、兵庫県西宮市に生を受けました。父親の恭一氏は紡績業を営んでおり、当時は「ガチャマン景気」という、織機を一度「ガチャン」と動かせば「万単位」の利益が出ると言われたほど、繊維産業が凄まじい勢いで潤っていた時代です。この特需の波に乗り、広瀬家は広瀬氏が小学2年生の頃、日本屈指の高級住宅街として名高い芦屋市・六麓荘町へと居を移しました。
5000平方メートルという、一般家庭の想像を絶する広大な敷地を誇る屋敷。庭からは瀬戸内海の美しいパノラマが一望でき、太陽に照らされてキラキラと輝く海面は、まさに絶景の一言でした。しかし、子供時代の広瀬氏にとって、この環境は必ずしも理想的ではありませんでした。高台にあるがゆえに、帰宅の際は急な坂道を数十分も歩く必要があったのです。友達も遊びに来るのをためらうほどで、広瀬氏は美景の中で少し寂しい思いを抱えていました。
ビジネスの芽を育んだ父との散歩と自由な学園生活
自宅でも仕事の電話で部下を叱咤していた父は、散歩中も常にビジネスの視点を忘れない人物でした。「あの店はここが惜しい」「この土地はこう活用すべきだ」という父の独り言を聞くうちに、広瀬氏にも自然と経営者の視点が根付いていきます。小学生で「ハワイでのかき氷店」を夢想し、大学生で上京した際には「たこ焼き店のチェーン展開」を着想したというエピソードからは、現在のエノテカへと繋がる商才の片鱗が早くも垣間見えますね。
そんな広瀬氏が多感な時期を過ごしたのが、中高一貫の甲南学園です。勉強家の姉弟とは対照的に、野原で野球に明け暮れていた広瀬氏にとって、この学校の「自由闊達(じゆうかったつ)」な校風は最高の居場所となりました。自分たちの意見を尊重し、枠に囚われない伸びやかな精神を育むこの環境を、同級生たちは愛着を込めて「甲南楽園」と呼んでいたそうです。先生をユーモアたっぷりにからかうような、茶目っ気あふれる学生生活を謳歌していました。
SNSでは「六麓荘に5000平米はレジェンドすぎる」「成功者の幼少期はやはり視点が違う」といった驚きの声が上がっています。また、自由な校風が彼の独創的なビジネスモデルを支えていることに納得するファンも多いようです。単なるお坊ちゃん育ちではなく、自由の中で「物事の規定」に疑問を持ち、常に「別の道」を探し続ける姿勢。これこそが、従来のワイン業界に風穴を開けた広瀬流ビジネスの真髄と言えるのではないでしょうか。
人生の指針となった「相手を認める」という教え
高校生活の最後、恩師から贈られた「立場の貴賤(きせん)にかかわらず相手を認めなさい」という言葉は、現在の広瀬氏を支える大きな柱となっています。貴賤とは、身分や地位が高いか低いかという意味ですが、どんな相手であっても敬意を払い、背景にある事情を汲み取ることの大切さを説いたものです。広瀬氏は当時、先生から「お前は特に覚えておけ」と釘を刺されたそうですが、この教えがなければ、世界中の生産者と信頼を築くことは難しかったでしょう。
個人的な見解ですが、この「相手を認める」という精神は、単なる道徳論ではなく、現代のビジネスにおける「Win-Win」の関係を築くための極めて実利的な知恵だと感じます。ワインの買い付けというタフな交渉の場において、相手の立場を理解することで、双方が納得できる最高の結果を導き出してきたのです。自由奔放な若者が、一人の大人として、そして経営者として成長していく過程が、この言葉に凝縮されているように思えてなりません。
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