1933年1月2日、札幌にある久保邸は、新春の喜びに加え、当主である久保兵太郎の古稀、つまり70歳のお祝いという記念すべき節目を迎え、5男2女の子供たち全員が集まる大賑わいとなりました。この席で、ご機嫌の兵太郎が詠んだ「七草や七味全き粥の出来」という句をきっかけに、温かな俳句談議が始まったのです。その口火を切ったのは、父の影響でわずか9歳の頃から創作活動を始めていた次男の栄だったのかもしれません。子供たちは父の長年の念願を叶えるため、古稀の記念として自慢の句を集めた私家版の句集を制作し、プレゼントすることを計画しました。
栄が編集を担い、洋画家である四男が装幀を担当するという、兄弟それぞれの才能を活かした温かい贈り物の準備が進められました。兵太郎自身も新年に新しい衣服を新調して着始める喜びを詠んだ「きそ始」の句を書き留め、完成を心待ちにしていたのです。しかし、これが彼の生涯の締めくくりとなる絶筆となってしまいました。翌月の2月に兵太郎が急逝したため、子供たちは父との最後の約束を果たすべく、残された3000近い作品から500句を厳選し、見事な『二瓢句集』を完成させて法要の席で配ったのです。
実業家や札幌商工会議所の会頭を歴任した兵太郎の交友関係は広く、かなりの部数が配られたはずですが、現在では幻の書物となっています。編集を務めた栄は、この年に戯曲『五稜郭血書』を上演し、大正から昭和にかけて既成の商業演劇に対抗して近代的な文学性や社会性を追求した演劇運動である「新劇」の若き旗手として注目を集める存在でした。SNS上でも「偉大な劇作家の背景に、こんなにも美しい家族の物語があったとは知らなかった」「親子の心の交流が俳句を通して伝わってくる」と、時代を超えた親子の絆に多くの感動の声が寄せられています。
栄自身も「ホトトギス」に投句して選ばれるほどの実力を持っており、東京帝国大学時代にはのちの文豪である堀辰雄らと「連句」と呼ばれる、複数人が交互に句を詠み繋いでいく伝統的な詩歌の共同制作を楽しんでいました。しかし、20歳の頃の栄は、医学の道を歩ませようとする厳格な父と深刻な不和を抱えていたのです。かつて一時的に養子に出されていたという心のわだかまりもあり、親子の間には深い溝がありました。それでも、上京した父と腹を割って話し合った際、演劇への情熱を父の理解できる「俳句」に例えて必死に説得したことで、ついに二人は真の親子として心を通わせることができました。
文学や芸術を志す若者が直面する親との葛藤、そしてそれを乗り越えるための誠実な対話の重要性は、現代の私たちにも強く突き刺さるテーマではないでしょうか。栄が日記に書き残した、父と二人で懐紙を分け合って涙を拭ったというエピソードは、単なる美談を超えて人間の魂の触れ合いを感じさせます。その後、1940年に栄は言論や思想を取り締まる治安維持法により検挙され、拘置所で苦しい日々を過ごすことになりますが、あのとき父と交わした心の温もりが、彼の劇作家としての骨太な生涯を支え続けたに違いないと私は強く感じています。
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