2019年05月22日、トヨタ自動車の販売ネットワークにおいて多大な功績を残された小栗七生(おぐり・ななお)氏が、83歳でこの世を去りました。名古屋トヨペットの会長を務め、地域の経済界を牽引し続けた同氏の訃報は、多くの関係者に深い悲しみを与えています。彼は単なる経営者の枠を超え、多くの人々から慕われる「心の拠り所」のような存在であったと言えるでしょう。今回は、激動の自動車業界を支えた彼の歩みとその類いまれなるリーダーシップについて、改めて詳しくお伝えします。
小栗氏が名古屋トヨペットの社長に就任したのは1986年のことでした。この「販売会社(販社)」とは、メーカーから車を仕入れてユーザーに直接届ける、いわば地域密着の最前線に立つ組織を指します。就任に際し、彼はオリンピックの精神として有名な「より速く、より高く、より強く」という言葉に、自らの信念である「より広く」を付け加えました。この一言こそが、その後の同社の運命を大きく左右する指針となったのは間違いありません。
バブル経済が崩壊し、日本中が新車販売の低迷に苦しんでいた時期も、小栗氏は決して守りに入りませんでした。彼は自動車の整備事業や中古車販売を強化し、車の「売買」だけでなく「維持」からも収益を得る仕組みを盤石にしたのです。さらに、携帯電話の販売や保険、さらには船舶事業に至るまで、多角的なビジネス展開を次々と決断しました。常に新しい価値を追求するその姿勢は、まさに「より広く」という基本方針を体現するものでした。
彼がこれほどまでに多才な事業を展開できた背景には、周囲を惹きつける圧倒的な人間味があったと考えられます。酒席やゴルフ、さらには日本舞踊といった趣味に至るまで、人からの誘いを決して断らないのが彼のスタイルでした。長男であり現社長の一朗氏が「優しさと包容力で信頼を築いていた」と語る通り、肩書きに奢ることなく誰とでも誠実に向き合う姿が、多くの取引先や社員から厚い信望を集めるきっかけとなったのでしょう。
業界の危機を救った「対話」の精神
小栗氏の指導力が最も発揮されたのは、2003年に起きた「系列統合」という歴史的な転換期でした。トヨタ自動車が展開していた「旧ネッツ店」と「旧ビスタ店」という二つの販売網を一つにまとめるという決断は、現場の販売店にとっては死活問題です。店舗同士の競合が激化し、役職の調整が必要になることから、全国の経営者からは猛烈な反発が巻き起こりました。業界全体が混沌とする中、彼はトヨタ自動車販売店協会の理事長として、その調整役に選ばれたのです。
対立する意見をまとめるのは容易ではありませんが、小栗氏は粘り強く対話を重ねる道を選びました。相手の主張に耳を傾け、納得がいくまで話し合いを継続するその誠実さに、頑なだった反対派も次第に心を動かされていきます。「小栗さんがそこまで言うのであれば」という言葉が漏れるほど、彼の言葉には重みと温かさがありました。最終的に統合を成功へ導いたのは、論理的な経営戦略以上に、彼が長年培ってきた「人徳」という名の無形の資産だったと言えます。
ネット上やSNSでも、彼の訃報に際して多くの声が寄せられています。「名古屋の自動車業界の父と言える存在だった」「あんなに気さくに話しかけてくれる会長は他にいなかった」といった、彼の人柄を懐かしむ投稿が目立ちます。また「厳しい時代でも常に明るい展望を見せてくれた」という元社員の書き込みからは、彼が残した影響の大きさが伺えます。冷徹な効率化が求められがちな現代において、彼のような「情」を大切にするリーダーの存在は、今の私たちにとっても大きな指針となるはずです。
私は、小栗氏の最大の功績は「競合を仲間に変える力」にあったと考えています。商売敵であっても、同じ業界を盛り立てる同志として尊重する。そうした高い視座があったからこそ、JAF(日本自動車連盟)などの団体トップも歴任できたのでしょう。1965年の入社以来、半世紀以上にわたって自動車社会を見つめ続けた彼の意志は、これからも名古屋トヨペット、そして日本の自動車業界の中に深く息づいていくに違いありません。心よりご冥福をお祈りいたします。
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