豊臣秀吉の野望が眠る「指月伏見城」の衝撃!二条城を凌ぐ30メートル超の巨大内堀が発掘調査で判明

戦国時代の覇者、豊臣秀吉が隠居所として築き上げた伝説の城「指月伏見城」の全貌が、現代の京都でついに姿を現しました。京都市文化財保護課は2019年09月20日、伏見区での発掘調査において、当時の内堀が幅30メートルを超える大規模なものだった可能性が高いと発表したのです。

今回の調査では、堀そのものの石垣こそ見つからなかったものの、堀を埋め立てるために使われた大量の土が確認されました。この堆積した土の範囲を、過去に見つかっていた東端の段差や西端の石垣データと照らし合わせることで、驚くべき堀のサイズが導き出されたのです。

スポンサーリンク

天下人の威信をかけた規格外の城郭構造

専門家によれば、江戸時代を代表する二条城の内堀が約25メートルの幅であることを考えると、今回の30メートル超という数字がいかに規格外であるかが分かります。秀吉は1592年に隠居用の屋敷としてこの地を選びましたが、後に本格的な城郭である指月城へと改築を繰り返しました。

この「指月城」という名称は、当時の伏見の美しい月を愛でるための風雅な響きを持っていますが、その実態はまさに天下人の威信をかけた巨大要塞だったのでしょう。深さ3.3メートル以上にわたる造成土の発見は、当時の人々がどれほど膨大な労働力を投じてこの地を切り拓いたかを物語っています。

SNS上では「秀吉のスケール感はやはり桁違い」「幻の城が現実味を帯びてきてワクワクする」といった歴史ファンの熱い声が溢れています。埋め立て後に築かれた武家屋敷の石垣も同時に発見されており、秀吉が夢見た城下町の変遷を直接肌で感じられる貴重な成果といえるでしょう。

歴史を振り返ると、この指月城は完成から間もない1596年に慶長伏見地震という未曾有の災害によって倒壊するという悲劇的な運命を辿りました。翌年の1597年には近くの木幡山へ場所を移して新たな城が築かれ、元の城跡は武家屋敷へと姿を変えて人々の記憶から薄れていったのです。

私個人としては、今回の発見こそが「負の歴史」に埋もれた秀吉の情熱を再評価する鍵になると確信しています。震災で消えたからこそ、土の下に手つかずで残された構造には、後の大坂城にも通じる秀吉流の美学と権力への執着が色濃く反映されているのではないでしょうか。

コメント

タイトルとURLをコピーしました