ビジネスパーソンから絶大な支持を集める日本経済新聞の看板連載「私の履歴書」をご存じでしょうか。現在、日本証券業協会の会長を務める鈴木茂晴氏の回顧録が、いまSNSを中心に大きな話題を呼んでいます。ネット上では「昭和の営業のパワーが凄まじい」「名経営者たちの若き日が豪華すぎる」といった驚きの声が続々と上がっているのです。物語の舞台は1971年4月1日、鈴木氏が大和証券へと入社した激動の時代から始まります。
当時の証券業界は、昭和40年不況という大不況からようやく復活を遂げた局面でした。鈴木氏ら団塊の世代は154人も大量採用され、代々木のオリンピック選手村で1週間の合宿研修に臨みます。しかし、鈴木氏の記憶にあるのは夜に研修所を抜け出して渋谷で飲んだことばかりだそうで、その破天荒なエピソードに思わず親近感が湧いてしまいます。その後、鈴木氏は花形部署である本店の営業部第4課へと配属されることになりました。
凄腕の先輩とマンツーマン!独自の育成システム
当時の本店営業部は300人もの大所帯で、組織を率いる部長の威厳は現在の比ではなかったといいます。そこで新人の育成係として機能していたのが、1970年から大和証券が導入していた「チューター制度」です。これは経験豊富な先輩社員が新人に付き、実務をマンツーマンで指導する教育システムを指します。鈴木氏の担当になったのは、後に日本証券業協会の会長など要職を歴任する越田弘志氏という、社内でも有名な超エリートでした。
越田氏は著名なデザイナーや大富豪を顧客に持つ凄腕営業マンで、先輩たちからは「怖い人だぞ」と脅されていたそうです。しかし、実際に働き始めると一度も怒鳴られたことはなく、鈴木氏は温かく見守られながら成長していきました。そして1971年7月に外務員資格を取得すると、いよいよ過酷な飛び込み営業の日々が幕を開けます。新人が最初に任されたのは、現代では考えられない「端株整理」という地道な営業手法でした。
令和ではあり得ない?昭和の豪快すぎる営業秘話
ここでいう「端株」とは、株式分割などで発生した、通常の売買単位に満たない株のことです。当時は個人情報保護の概念がなかったため、企業から株主名簿を譲り受け、その名簿を頼りに「売買単位に足りない分を買い増しませんか」と家々を訪問しました。鈴木氏は高級住宅街の渋谷区松濤にも果敢に飛び込みますが、ある大邸宅で勧誘したところ、なんと競合である共和証券の社長宅だったという、爆笑必至の失敗談も残しています。[/p>
猛暑の中で何度も断られながら歩き続けた鈴木氏ですが、ついに努力が実を結ぶ瞬間が訪れました。高輪の自動車修理工場の奥様が、熱心に通う姿に心を動かされて初めての買い注文をくれたのです。この初成約の鮮烈な喜びが、後の名経営者を育てる原点となったことは間違いありません。泥臭くも人間味に溢れた昭和の営業ストーリーは、デジタル時代の私たちにも、ビジネスの本質である「人と人との繋がり」を熱く教えてくれます。
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