日産リバイバルプランの真実!ゴーン氏の前に「名門工場閉鎖」を叫んだ伝説の男が明かす改革の舞台裏

大手自動車メーカーの日産自動車で、かつて経営の根幹を揺るがす壮絶なドラマが展開されていたことをご存じでしょうか。河西工業の社長を務める渡辺邦幸氏が明かす、1990年代初頭の知られざる構造改革の舞台裏が今、インターネット上やSNSで「ゴーン氏の功績の裏にこんなドラマがあったとは」「現場のリアルな葛藤が凄まじい」と大きな反響を呼んでいます。

物語の始まりは1991年1月1日に遡ります。渡辺氏は1年間にわたるアメリカ勤務を終え、日産本社の経営企画室次長として帰国しました。しかし、当時の社内はまさに嵐の前の静けさでした。前年である1990年12月の経営会議において、次年度の事業計画が否決されるという異例の事態が発生していたのです。業績悪化に目をつむり、右肩上がりの成長を前提とした現実味のない計画が、経営陣に退けられた結果でした。

事態を重く見た経営企画室は、1991年3月に特命チームを結成し、渡辺氏らにわずか2カ月という極めて短い期間での「構造改革の素案」作りを命じます。ところが、優秀な部下たちはなぜか一向に動こうとしません。しびれを切らした渡辺氏が宴席に誘って本音を問い詰めると、部下からは「あなた自身に日産をどうしたいかという明確なビジョンがないのに、改革案など作れるわけがない」と、痛烈な一言が返ってきたそうです。

この言葉に強い衝撃と怒りを覚えた渡辺氏は、翌日から猛然と行動を開始しました。財務から生産現場に至るまで、会社のあらゆる経営数字を徹底的に洗い出したのです。そこで浮かび上がってきたのは、実態とかけ離れた異常な経営状況でした。特に深刻だったのが、当時の販売力に見合わない過剰な生産体制です。国内企業への生産委託を進める一方で、イギリスやアメリカの海外工場にも同規模の生産能力があり、完全に供給過剰に陥っていました。

さらに、1991年3月期の有利子負債、つまり利息を付けて返済しなければならない借金は3兆円という天文学的な数字に膨れ上がっていたのです。このままのペースで返済を続ければ、完済までに50年もの歳月を要する計算となり、固定費、すなわち売上に関わらず毎月必ず発生する人件費や施設維持費などの経費を根本から削減しなければ、会社の再生は到底見込めない局面に達していました。

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激怒する社長と3日間の緊迫した取締役会

渡辺氏は1991年の大型連休中に不眠不休で素案をまとめ上げ、連休明けに久米豊社長へ提出しました。しかし、内容を見た久米社長は「我々が何も考えずに給料を払ってきたとでも思っているのか。こんな案は取締役会に諮っても認められるはずがない」と激高します。それは、当時の常識を覆すあまりにも過激な内容だったからです。

その後、ホテルを舞台に3日間に及ぶ緊迫した取締役会が開催されました。議論が紛糾する中、最終日に久米社長が渡辺氏の控室を訪れ、「俺の回答書を書いてくれ」と告げたのです。それは、経営陣が会社の危機を受け入れ、渡辺氏の計画案を全面的に承認した歴史的な瞬間でした。この計画こそが、後に世界を震撼させる「日産リバイバルプラン」の真の原型だったと言えるでしょう。

その驚くべき中身は、神奈川県の座間工場や東京都の村山工場、さらに日産車体の京都工場の一部閉鎖という、聖域なき大規模リストラでした。他社への委託生産を打ち切り、マツダとの商用車の相互供給による効率化なども盛り込まれていました。しかし、久米社長は世論への影響を恐れたのか、この大胆な計画をすぐには実行に移そうとはしませんでした。

1991年末に社長が交代するという情報を掴んだ渡辺氏は、次期社長となる辻義文副社長に直接掛け合い、「実行計画の策定と座間工場の閉鎖を今すぐ決断してください」と直談判を試みます。1992年に社長へ就任した辻氏は実行計画をまとめ、翌1993年にマツダとの提携と座間工場の閉鎖を世に発表しました。

メディアの猛反発と封印された改革案の行方

発表直後、マスメディアは「消える名門工場」などとセンセーショナルに報じ、世論を煽り立てました。この猛烈な反発にうろたえた経営陣は、村山工場の閉鎖といった計画の一部を凍結してしまいます。結果として、給与の引き下げなどの場当たり的な延命処置に終始することとなり、1998年3月期には負債が4兆円を突破、「もうこの会社はもたないかもしれない」と渡辺氏も絶望を抱く状況へ陥りました。

筆者は、この当時の経営陣の「日和見主義」な姿勢こそが、その後の日産の迷走を長引かせた元凶であると考えます。痛みを伴う改革を先送りしたツケが、さらなる巨額の負債を生む結果となったのです。変革期において、リーダーがいかに強い覚悟を持たねばならないかを示していると言えます。

その後、渡辺氏らが作った構造改革の極秘資料は社長室にひっそりと保管され続けました。そして1999年、フランスのルノーからカルロス・ゴーン氏が派遣され、世間を驚かせた劇的な再建策を発表します。その中には、かつて封印されたはずの村山工場の閉鎖が明確に盛り込まれていました。ゴーン氏も間違いなくその資料を熟読し、日本人自らが作った血の滲むような改革案をベースに再生を果たしたに違いありません。

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