2019年5月31日、政府の中央防災会議(会長:安倍晋三首相)において、南海トラフ巨大地震による最新の想定被害が公表されました。今回の試算では、想定される死者数が23万1千人となり、2013年の試算から約3割減少したことが明らかになりました。これは、この5年間で建物の耐震化が進んだことや、大津波に対する住民の避難意識が高まったことが反映された結果だと考えられます。しかしながら、建物の全壊棟数は209万4千棟と依然として極めて深刻な数字であり、被害想定の目標ペースにはまだ遅れが見られる状況です。
今回の基本計画の修正で特に注目を集めているのが、東西に広がる震源域の半分でのみマグニチュード(M)8クラスの地震が発生する「半割れ」ケースへの対応です。この「半割れ」地震は、発生の時期や場所、規模を正確に予測することが現在の科学的知見では極めて難しいとされています。このため、国はまだ地震が起きていない残り半分側の地域に対し、予期せぬ本震への備えとして、最大1週間の避難を求める方針を打ち出しました。この新たな措置は、地震による甚大な被害に見舞われた地域がある状況で、さらに被害を免れた側の住民にも避難を促すという、極めて困難な課題を自治体に突きつけているのです。
この前例のない対応に対し、SNS上では「まだ被害がないのに避難が必要なの?」「仕事はどうなる?」「本当に1週間も避難生活が送れるのか」といった不安や戸惑いの声が数多く寄せられています。住民の理解と協力が不可欠であるにもかかわらず、未だ被害のない段階での避難要請に、住民がどこまで応じてくれるのかという懸念は、当然のことでしょう。高知県黒潮町の担当者が「自分たちの地域に被害が出ていない段階で、避難の呼びかけに応じてくれるだろうか」と、住民への周知の難しさを口にするのは、まさに行政の直面する苦悩を物語っています。
自治体が抱える「被災域外避難」という重い課題
新しい「南海トラフ地震防災対策推進基本計画」では、市町村に対し、事前に1週間の避難対象地域を指定し、避難場所や避難経路などの詳細を定めるよう義務付けています。政府は2020年(令和2年)春までの計画策定を目指しており、2019年(平成31年)4月から各地で自治体向けの説明会も重ねています。しかし、現場の自治体からは戸惑いの声が上がっています。例えば、最大26メートルの津波が想定される三重県志摩市の担当者は、「正直、何から手を着けていいか分からない」と、準備の遅れに対する焦りを隠せない様子です。また、食料や生活物資の不足といった社会的影響を最小限に抑えるため、企業には営業継続が求められる可能性もあり、「物流を滞らせないために交通規制の方法も検討しないと……」と、その検討事項の多さに頭を悩ませています。
さらに、避難対象地域の「線引き」も大きな壁となっています。市町村は、どの地域が1週間の避難対象になるかを計画で明確に示さなければなりません。宮崎市の担当者は、「対象地域は地価に影響しかねない」と、地域間の不公平感が生じないよう、近隣自治体と綿密な情報交換を行い、整合性を図る必要性を強調しています。また、全国最大の34メートルの津波が想定される高知県黒潮町では、すべての住民の避難先と避難経路の把握など、具体的な取り組みを進めており、「住民への意識付けが大事」だと、日頃からの防災意識向上が重要であると強く訴えています。
私は、この「半割れ」対策の必要性は理解できるものの、未被災地域からの避難という要求は、極めて難易度の高いオペレーションだと感じています。住民の命を守るための避難である一方、地域の経済活動や生活に大きな影響を及ぼすため、線引きの公平性、企業活動の継続、そして何より住民の納得感が欠かせません。名古屋大学減災連携研究センター長の福和伸夫氏(地震工学)が指摘するように、自治体だけでなく、学校・福祉施設、鉄道事業者、その他の企業など、地域全体での合意形成ができていないと、いざ避難が始まった際に深刻な社会的混乱を招く危険性があります。
南海トラフ地震は「いつ起きてもおかしくない」状況です。国には、今回の想定死者数減少に安堵することなく、自治体が抱えるこの困難な課題に対し、モデル地区を設定して計画づくりを積極的に後押しするなど、より実践的かつ具体的な取り組みを強く求めたいと思います。これにより、地域の混乱を防ぎ、一人の命でも多く救える体制を築くことが、今、最も重要であると言えるでしょう。
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