イランが米国を「大悪魔」と呼ぶ真意とは?70年にわたる不信の歴史と知られざる「日章丸事件」の絆

中東の要衝であるイラン。その指導者たちが、しばしば米国を「大悪魔」という過激な言葉で表現することをご存じでしょうか。この衝撃的な呼称は、1979年のイラン革命を率いたホメイニ師によって名付けられました。なぜ、一国のリーダーが他国をこれほどまでに忌み嫌うのか。その背景には、国際政治の教科書には載らないような、複雑に絡み合った歴史的な怨恨と内政干渉のドラマが隠されているのです。

時計の針を70年近く前まで戻してみましょう。物語の始まりは1951年、当時のイラン首相モサデク氏が、自国の石油資源を独占していた英国企業から資産を奪還しようと試みたことにあります。自分の国の資源を自分たちの手に取り戻そうという「資源ナショナリズム」の動きは、当時の国民から熱狂的な支持を集めました。しかし、世界市場を支配していた欧米の石油資本は、これを断じて許さなかったのです。

米英は報復としてイラン産原油の輸出を完全に封鎖しました。特に英国海軍は艦船を派遣し、原油を運ぼうとするタンカーを攻撃すると脅しをかけたのです。このような絶望的な状況下で、1953年に救世主として現れたのが日本の出光興産でした。同社はタンカー「日章丸」を極秘で派遣し、イラン産原油の買い付けに成功したのです。この勇気ある決断こそが、現在まで続く日本とイランの深い友好関係の礎となったといえるでしょう。

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CIAの介入と「安定の島」と呼ばれた親米政権の終焉

しかし、事態はさらに深刻な局面へと向かいます。1953年、米中央情報局(CIA)と英国の情報機関は、イラン国軍の一部と共謀してクーデターを画策しました。これにより、民衆の期待を一身に背負っていたモサデク首相は政界から追放されてしまいます。代わって実権を掌握したのは、親米派のパーレビ国王でした。これが、後にイランの人々が米国に対して抱く「内政干渉への恐怖」の決定的なきっかけとなったのです。

パーレビ国王は「白色革命」と銘打った近代化政策を推し進めました。これは経済発展を目指すものでしたが、伝統を重んじるイスラム教徒たちとの間に深い溝を作ることになります。国王は反対派を抑え込むため、CIAが指導したとされる秘密警察「サバク」を動員し、苛烈な弾圧を行いました。SNSでは「自由の象徴であるはずの米国が、独裁体制を裏で操っていた矛盾こそが悲劇の始まりだ」といった厳しい意見も散見されます。

1977年に当時のカーター米大統領がイランを訪問した際、彼はこの国を「混迷する地域における安定の島」と称賛しました。しかし、その輝かしい言葉の裏で、国民の不満はすでに限界に達していたのです。そして1979年1月、ついに怒れる民衆の力によって国王は国外追放に追い込まれました。翌1980年には両国の国交は完全に断絶し、今日まで続く深い対立の溝が決定的なものとなったのです。

現代の視点から考えると、国家間の信頼関係を築くのは長い年月が必要ですが、それを崩すのは一瞬の強権的な介入であると痛感せざるを得ません。シーア派の法学者が統治する現在のイランにとって、米国への強硬姿勢は単なる外交戦略ではなく、国のアイデンティティそのものとも言えます。歴史を紐解くことで、ニュースの見え方も大きく変わってくるのではないでしょうか。今後もこの両国の動向からは目が離せません。

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