日本を代表するSF作家の新井素子さんが、自身の日常に起きた「ある変化」を2019年09月08日のエッセイでユーモラスに明かしています。きっかけは、ご主人がテレビの俳句番組に心を奪われたことでした。もともと凝り性なご主人は、思い立つやいなや歳時記を買い込み、怒涛の勢いで実作を開始したのです。その熱量の高さには、長年連れ添った新井さんも驚きを隠せなかったようですね。
ご主人の情熱は留まることを知りません。独学では飽き足らず、知人の紹介で即座に俳句の結社、いわゆる「俳句愛好家のグループ」へ入会を決めてしまいました。図書館で関連書籍を山のように借り、付箋を貼りながら熱心に研究する姿は、まるで受験生のようです。新井さんは、大学時代の同級生でもあるご主人の変貌ぶりに「なぜ学生時代にその集中力を発揮しなかったのか」と愛情たっぷりのツッコミを入れています。
小説と俳句の決定的な違いとは?
当初は戸惑っていた新井さんですが、寄り添ううちに俳句が持つ独特の面白さに気づき始めました。特に興味深いのは、エンターテインメント小説と俳句の「立ち位置」の違いだといいます。小説は物語の謎を解き明かし、作者が丁寧に説明を尽くす文化です。一方で俳句は、五・七・五という極限まで削ぎ落とされた言葉の中に、読者が想像を膨らませる余白を残します。この潔い手法に、言葉のプロである彼女は新鮮な衝撃を受けたのです。
また、俳句における漢字表記の文化も驚きの対象でした。例えば、カマキリを「蟷螂」、ボウフラを「孑孑」と記すなど、難解な漢字が日常的に使われます。小説では読者の読みやすさを優先して避ける表現も、俳句の世界では風情や格式を重んじるために積極的に採用されるのです。同じ日本語を扱いながら、ジャンルによってこれほどまでに「美学」が異なるのは、文化の多様性を感じさせてくれて非常に興味深い視点だと言えるでしょう。
さらに初心者が陥りやすいミスとして「季重なり」という現象も紹介されています。これは一句の中に季節を表す言葉(季語)が複数入ってしまうことで、本来は避けるべきルールです。ご主人の初期の作品「くらげ来て海水浴はお盆まで」には、なんと三つも季語が混在しており、新井さんは「交通標語のようだ」と笑い飛ばしています。こうした失敗を共有しながら、未知の世界を一緒に楽しむご夫婦の姿は、SNSでも「微笑ましい」「理想の夫婦」と温かい反響を呼びそうです。
未知の文化をリスペクトする姿勢
ご主人の趣味に付き合い、時には家族旅行がそのまま「吟行(景色を眺めながら俳句を詠む旅)」に変わっても、新井さんはそれを全力で楽しんでいます。自分とは異なる表現技法に触れ、敬意を払う彼女の柔軟な姿勢は、クリエイターとしてだけでなく、人生を豊かにするヒントに満ちています。新しいことに挑戦する家族を応援し、そこから自分も学びを得る。そんな素晴らしい連鎖が、このエッセイからは伝わってきます。
私自身、この記事を読んで「表現」の奥深さを再認識しました。小説家が「説明したい」という本能を抑えて、あえて語らない俳句の美学に感銘を受ける様子は、異なる価値観を尊重することの大切さを教えてくれます。ご主人の俳句修行はまだ始まったばかりですが、新井さんの温かい眼差しに見守られながら、いつか名句が生まれる日が来るのが楽しみでなりません。日常の中に新しい風を吹き込んでくれたご主人へ、彼女は心からの感謝を綴っています。
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