セピア色の古い写真に写し出された、唐傘を広げたような不思議な円錐形の屋根。一見すると異国の風景のようにも見えますが、傍らには誇らしげに日の丸が掲げられています。これは1935年(昭和10年)以降、茨城県の内原(現在の水戸市)に存在した「満蒙開拓青少年義勇軍」訓練所の光景です。この独特な形状から「日輪兵舎」と名付けられた建物は、当時の日本建築の常識を覆す異彩を放っていました。
日輪兵舎は、主に10代の少年たちが旧満州(現在の中国東北部)への移住に備えて、農作業などの厳しい訓練を受ける際の宿舎として使用されました。終戦時には内原だけで約350棟、日本全国では推計700棟以上も建設されたといいます。SNS上では「まるでおとぎ話の家のようだが、背景にある歴史の重みに言葉を失う」といった声や、その特異なフォルムが持つ機能美に驚く反応が寄せられています。
建築家・古賀弘人が託した「大陸での生存戦略」
この独創的な建物を考案したのは、熊本県出身の建築家、古賀弘人氏です。彼は中国大陸での革命運動に関わったという異色の経歴を持ち、1932年(昭和7年)頃から日輪兵舎の原型を構想し始めました。当初の設計思想は、満州の極寒に耐え、さらには周囲の襲撃から身を守るという、極めて実戦的な「生存戦略」に基づいたものでした。まさに開拓という名の過酷な最前線を生き抜くためのシェルターだったのです。
この構想に注目したのが、内原を拠点に義勇軍事業を推進した農本主義者の加藤完治氏でした。「農本主義」とは、農業を国家の基盤として尊ぶ思想のことです。1937年(昭和12年)秋からは、建築の素人である訓練生たち自身が建設に携わるようになりました。中心に太い柱を立て、円周に沿って2段の寝床を作る構造は、10人で数日あれば完成するという驚異的なスピードを可能にしました。
しかし、効率を重視した突貫工事のツケは、少年たちの生活に跳ね返りました。当時の証言によれば、雨漏りは日常茶飯事で、夏場はノミやシラミの繁殖に悩まされたといいます。3人で2枚の布団を分け合う過酷な環境。一見するとロマンチックな円形の屋根の下には、戦時下という非常事態が生んだ歪みと、大陸へ渡る日を夢見た少年たちの切実な息遣いが確かに刻まれていたのでしょう。
消えゆく負の遺産を記録する、建築士の執念
戦後、日輪兵舎の多くは民間の住宅資材へと転用され、その姿を急速に消していきました。一級建築士の前田京美氏は、ネットで見かけた不思議な曲線美に魅了され、この忘れ去られた建築物の調査を開始しました。各地の資料館を巡り、山形や長野などに現存するわずか4棟の実測調査を敢行。2019年(令和元年)8月には、その成果をまとめた著書を出版し、歴史の闇に埋もれかけた「証人」に光を当てました。
私は、この日輪兵舎という存在に、当時の日本が抱いていた「大陸への熱望」と「個の犠牲」の矛盾を強く感じます。円形のモダンな造形は一見自由に見えますが、その実は極限まで無駄を省いた集団生活の装置でした。負の歴史を象徴する遺産かもしれませんが、それを単に「奇妙な建物」として片付けるのではなく、当時の少年たちが何を見つめていたのかを、私たちはこの建築を通じて学び直すべきではないでしょうか。
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