1992年12月、「インターネットの先駆者になる」という壮大な志を掲げて誕生したIIJ(インターネットイニシアティブ)。しかし、その船出は想像を絶する荒波の連続でした。翌1993年、創業者の鈴木幸一氏は、資金繰りの行き詰まりと郵政省(現在の総務省)からの事業認可が下りないという、二重の苦しみに直面していたのです。
季節が巡り、夏が過ぎてもサービスを開始できない焦燥感は、計り知れないものだったでしょう。当時のSNS上の反応を想像すれば、「理想だけでは飯は食えない」といった厳しい声が飛んできそうな状況です。実際、社員の給与すらままならず、鈴木氏は自身のわずかな蓄えを切り崩して充当する日々を余儀なくされました。
給料日に経理担当者が手渡す、薄い茶封筒。その重みのなさに、手渡す側も受け取る側も言葉を失うような、切ない光景が繰り返されていたのです。しかし、鈴木氏はリーダーとしての弱音を一切見せませんでした。「駒忠」や「養老乃瀧」といった庶民的な居酒屋をハシゴし、最後は自宅で気勢を上げることで、仲間との絆を繋ぎ止めていたのでしょう。
極限状態の中で、鈴木氏は「1ヶ月の食費を2万円に抑える」という奇妙な貧乏実験まで試みています。納豆や生卵、豆腐だけで白米をかき込む姿は、一見すると滑稽かもしれません。ですが、そこまでしてでも夢を諦めない執念には、現代の起業家にも通じる凄みを感じます。もっとも、周囲からは冷ややかな目で見られていたようですが。
金策に走る中で、鈴木氏は「金の切れ目が縁の切れ目」という世間の冷たさを骨身に沁みて味わうことになります。1993年の年末、旧知の銀行幹部を頼ったものの、相手は資金援助の隙を与えないよう一方的に喋り続け、わずか1時間で席を立ってしまいました。楽天家の鈴木氏ですら、上野までトボトボと歩いて帰るほど、その拒絶は心に深く刺さったのです。
1994年の年明け、ついに自己破産の影がちらつく中で、鈴木氏は郵政省との最終交渉に挑みます。役所が求めたのは「3億円の財務基盤」でした。これは現金だけでなく、銀行による「融資保証(銀行が企業の債務を肩代わりすることを約束する仕組み)」でも良いという言質を、執念で引き出したのです。
この役所の態度の軟化が突破口となりました。住友銀行、富士銀行、三和銀行の3行から、それぞれ1億円の融資保証を取り付けることに成功したのです。さらに、住友商事や伊藤忠商事からも「鈴木さんを信じる」という熱い言葉とともに、出資の約束を取り付けました。技術を超えた「人間力」が、不可能を可能にした瞬間と言えるでしょう。
1994年02月28日、ついに「特別第2種電気通信事業者」としての登録認可が下りました。これは、独自の回線網を持たずに大規模な通信サービスを提供する事業者に必要な、極めて重要なライセンスです。1年数ヶ月という長い足踏みを経て、日本のインターネットの歴史がようやく本格的に動き出したのです。
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