電話越しに響く「絵描きの野田です」という穏やかな声。その主こそ、日本の現代写実画において頂点に君臨する巨匠、野田弘志氏です。歌人として活躍する今野寿美さんと野田氏の交流は、驚くべきことに30年以上の歳月を数えます。二人の運命が交差するきっかけとなったのは、一玉の「桃」が紡いだ不思議な縁でした。
1989年に刊行された今野さんの歌集『世紀末の桃』。その表紙を飾ったのが、野田氏による水彩画「桃二つ」だったのです。装幀家の高麗隆彦氏がこの作品を見事に引き合わせ、至高の一冊が誕生しました。SNS上でも「この表紙の桃には、実物以上の存在感と香気を感じる」といった感動の声が、時代を超えて今なお投稿され続けています。
野田氏の作品、特に「湿原」と題された超細密な鉛筆画シリーズは、見る者の魂を揺さぶる圧倒的な描写力を誇ります。今野さんもその魔力に魅了された一人であり、先生の新作に巡り合うためなら、たとえどれほど遠方であっても迷わず足を運んだといいます。対象の真理を抉り出すような写実の力には、言葉を絶する美学が宿っています。
北海道のアトリエで目撃した歴史的傑作の胎動
拠点を北海道の洞爺湖を一望できる地へ移された野田氏から、2015年夏の日に特別な誘いが届きました。自身が主宰するアカデミーで短歌の講義をしてほしいという依頼です。期待に胸を膨らませてアトリエを訪れた今野さんは、そこで制作の最中であった、ある驚天動地の大作を目の当たりにすることになります。
その作品こそ、のちに日本中に知れ渡ることとなる「上皇上皇后両陛下の御肖像」でした。当時、すでにキャンバスの中の表情は驚くほどリアルな生命感を湛えていましたが、巨匠は「まだ完成まで3年はかかる」「顔というものは実に難しい」と静かに語ったそうです。妥協を許さない芸術家の誠実な姿勢が、ひしひしと伝わってきます。
野田氏の技法は、油彩画でありながら終盤の工程で「面相筆」という極細の筆を用いるのが特徴です。これは本来、日本画などで非常に繊細な線を引くために使われる道具。7割方描き進めた後に、この細筆で執念のごとく細部を突き詰めていくからこそ、写真をも凌駕する「実在感」がキャンバスの上に立ち上がるのでしょう。
2019年春、ついに完成した御肖像が皇居内の三の丸尚蔵館で公開されました。この吉報に、美術界のみならず多くの国民が感銘を受けました。お祝いの席で、深夜までワインを嗜む野田氏の姿があったといいます。絵画に対して一切の妥協を排するように、ワインの香りを慈しみ、優雅に口に運ぶその所作は、まさに美を体現する表現者そのものです。
私は、野田氏の描く「写実」とは単なる外見の模倣ではなく、対象が持つ「生命の重み」を定着させる祈りのような行為だと感じます。今野さんの言葉を通じて、巨匠の人間味あふれる素顔と、美への凄まじい執念を知ることができました。一玉の桃から始まったこの物語は、今後も色褪せることなく語り継がれていくに違いありません。
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