NYアートのルーツに迫る!アメリカの魂を描いた「ハドソン・リバー派」と多様性の街の起源

第2次世界大戦が終結したのち、ニューヨークは抽象表現主義やポップ・アートといった革新的な芸術を次々と生み出し、世界の美術界を牽引する中心地となりました。しかし、この大都市が最初からアートのリーダーだったわけではありません。今回は、その華々しいモダンアートの礎が築かれた、知られざる近代絵画の誕生の歴史を紐解いていきましょう。

ネット上でも「NYのアートといえば現代美術のイメージが強いけれど、その背景にある歴史を知ると見方が変わる」といった声が上がっており、いま改めて初期アメリカ美術への注目が高まっています。

スポンサーリンク

大自然にアメリカらしさを追い求めた「ハドソン・リバー派」の衝撃

ニューヨークの近代絵画の物語は、マンハッタンからハドソン川を北上した場所にある美しい渓谷の町、キャッツキルから始まります。1825年の晩秋にこの地を訪れ、手つかずの大自然に深い感銘を受けたのが画家のトーマス・コール氏です。彼はのちに、アメリカで最初の大規模な芸術家集団となる「ハドソン・リバー派」の創始者として歴史に名を残すことになります。

ハドソン・リバー派とは、ニューヨークを拠点に、ハドソン渓谷やニューイングランド地方の雄大な風景を独自の視点で描いた画家たちの集まりを指します。それまでヨーロッパの模倣に終始していたアメリカの美術界において、自国のアイデンティティを表現しようとした極めて重要な運動です。

彼の代表作である1836年制作の『キャッツキルの眺め 初秋』は、メトロポリタン美術館に所蔵されており、圧倒的な存在感を放っています。画面を詳しく観察すると、川で小舟をこぐ男性や、猟師、赤ん坊に駆け寄る母親など、小さな人物が点景として描かれており、これが景色の雄大さをより一層引き立てていることに気づくでしょう。

さらに画面の隅に描かれた1本の切り株は、当時進んでいた鉄道開通や未開の地の開拓という時代の発展と、それによって失われていく美しい自然への哀愁を暗示しています。彼はヨーロッパで学んだ風景画の伝統技法と、アメリカならではのダイナミックな風土を融合させ、独自の理想郷を作り上げたのです。

SNSでは「ただの風景画ではなく、当時の人々の自然に対する畏敬の念や、文明開化への葛藤が緻密に描き込まれていて引き込まれる」と、そのドラマチックな画面構成を絶賛する美術ファンの感想が多く見られます。筆者自身も、単なる写実にとどまらず、画家の強い思想や寓意が込められているからこそ、200年近く経った現代でも私たちの心を揺さぶるのだと感じます。

多様性の街の原点!オランダ植民地時代の「ニューアムステルダム」

ここで、さらに時代をさかのぼってみましょう。1609年に探検家ヘンリー・ハドソン氏が北米に到達した際、オランダは現在のマンハッタン島を交易の拠点とし、交易都市「ニューアムステルダム」を建設しました。実はこれが、のちのニューヨークの原型なのです。

現在でもブロードウェーやウォール街といった有名な通りの名前は、当時のオランダ語やオランダ人が築いた防壁に由来しています。ニューヨーク歴史協会に保管されている植民地時代の版画には、オランダ風の建物や風車が並ぶ、かつての美しい街並みがノスタルジックに描かれています。これは、のちに街がイギリスの支配下へと移ったあとも、人々がかつての繁栄に抱いた郷愁の表れと言えるでしょう。

この貿易都市は、古くから異なる人種や言語、宗教に対して非常に寛容な気質を持っていました。ヨーロッパで不当な扱いを受けていたさまざまな人々が、一定の権利を認められて暮らしており、街では20種類以上の言語が飛び交っていたと伝えられています。

もちろん、当時は黒人奴隷制度が存在していたという厳然たる事実があり、決して完全な理想郷だったわけではありません。しかし、あらゆるバックグラウンドを持つ人々が共生する、現在の「メルティングポット(人種のるつぼ)」としてのニューヨークの基盤は、間違いなくこの時代に形成されたものです。

世界中から移住者が集まる街だからこそ、人々は「自分たちにとってアメリカらしさとは何か」を真剣に模索し始めました。1776年の独立宣言を経て、画家たちが自国の風土を誇り高く描き始めたハドソン・リバー派の誕生は、まさに新しいアメリカン・アートが覚醒する美しい夜明けだったと言えるのではないでしょうか。

コメント

タイトルとURLをコピーしました