大和証券のトップ、鈴木茂晴氏の青春放浪記!部活と友情、そして全員不合格から始まった予備校奇譚

日本証券業協会の会長を務めた鈴木茂晴氏の、鮮やかな青春時代を振り返ってみましょう。1963年4月に京都府立洛東高校へと進学した鈴木氏は、深い考えもないまま水泳部への入部を決めました。当時の活動環境はユニークで、学校に専用のプールが存在しなかったため、蹴上にある浄水場の貯水池を練習拠点にしていたそうです。現代のSNS上でも「浄水場で練習なんて今では考えられない」「昭和の豪快なエピソードが魅力的すぎる」と、当時の破天荒な環境に驚く声が多数寄せられています。

練習内容は非常に厳しく、体調を崩した際も先輩から「泳げば治る」と一喝されるほど、根性論が色濃く残る時代でした。鈴木氏の専門はクロールなどの自由形で、壁を蹴って素早く反転するクイックターンがまだ普及していない中、100メートルを1分7秒で泳ぎ切る実力を持っていたのです。1964年の高校2年生の時には、400メートルメドレーリレーで京都府大会を突破し、見事に近畿大会への切符を手にしました。この実績が、彼の高校生活における最高峰の輝きとなったのです。

遠征行事も楽しい思い出であり、移動中の電車内で顧問からビールを勧められ、素直に口にするような大らかな時代でもありました。また、冬の寒さが厳しい木造教室では、配給される石炭がすぐに底を突くため、生徒たちが床下に石炭を隠匿するという珍事件も発生します。この悪事が発覚した際、機転を利かせた生徒が隣のクラスの床下に埋めていたため、濡れ衣を着せられた隣の教室が叱られるという、なんともお茶目で少し不条理な結末に、思わず笑みがこぼれてしまいますね。

お昼休みには学校を抜け出し、駅前のお好み焼き店へ足を運ぶのが日常茶飯事だった鈴木氏とその友人たち。当然のように午後の授業に遅刻するため、教室に残った仲間が本人の代わりに返事をする「代返」が横行していました。ある日、代返の直後に本人が堂々と教室へ戻ってくる珍事が3回も連続し、ついに教師の堪忍袋の緒が切れたそうです。「戻るならもっと隠密に行動しろ」と、怒りのポイントがズレた叱責を受けたエピソードからは、当時の先生方の寛大さと温かみが伝わってきます。

当時の洛東高校は男女の比率が同じくらいで、さらに一学年上には世界的なミスコンテストである「準ミス・ユニバース」の日本代表に選出されるほどの美女が在籍していました。さらに、20歳を超える上級生や留年した生徒も珍しくなく、恋愛模様も非常に進歩的だったと言えるでしょう。運動会の長距離走で、背中に「追い越し禁止」の看板を背負って疾走する先輩や、自作の「美人」カードを掲げて憧れの女性の手を引きグラウンドを1周する生徒会長など、大人のユーモア溢れる悪ふざけが日常を彩っていました。

しかし、楽しい日々に没頭するあまり、鈴木氏は学業を完全に疎かにしていました。高校3年生の夏に部活動を引退した後も、受験勉強への学習意欲という点火プラグに火がつくことはなかったのです。試験科目の多い国公立大学への進学は早々に諦め、地元の名門私立大学である同志社大学や立命館大学に狙いを定めて受験に挑みました。ところが結果は無情にも全滅となり、不合格の通知を受け取った鈴木氏は、浪人生として予備校の関西文理学院へ籍を置くことになります。

失意の中で門を叩いた予備校でしたが、そこで鈴木氏を待っていたのは、驚天動地の光景でした。なんと、通い始めた予備校の校舎には、同じ高校を卒業した同級生が100人も集結していたのです。この衝撃的なオチに対してネット上では、「100人も一緒に浪人するなんて、もはや学校の延長線上で楽しそう」「それだけ仲が良かった証拠ですね」といった親近感を抱くコメントで溢れかえっています。挫折さえも青春の1ページに変えてしまう、エネルギーに満ちた素晴らしい時代劇画のようですね。

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