伝統の重圧を背負う若き日の楽直入氏は、イタリアのローマで美術館や教会を巡り、最先端の現代音楽に触れる刺激的な日々を過ごしていました。しかし、内面では「自分は何を表現すべきか」という深い自己懐疑に苛まれていたのです。大学を中退して現地に残ろうとする彼を救ったのは、裏千家出張所で出会った野尻命子氏の温かい一言でした。「一度日本へ帰り、出直してみては」というアドバイスや友人の説得に応じ、後ろ髪を引かれる思いで帰国を決意します。
予定を大幅に超過した約半年に及ぶ欧州滞在の結果、待っていたのは出席日数不足による留年という厳しい現実でした。東京藝術大学という最高峰の芸術系大学において、留年はまさに前代未聞の出来事と言えるでしょう。SNS上でも「偉大な芸術家にも、進路に迷い引きこもる人間らしい時期があったのだ」と、その意外な挫折に共感と驚きの声が多数寄せられています。1970年を境に激変する学内の雰囲気の中で、彼は周囲との距離を急速に感じ始めることになります。
宮沢賢治の詩に心を重ねた孤独な夜と「ヌーベルバーグ」がもたらした涙
同級生たちが卒業制作に追われる中、彼は昼夜が逆転した生活を送り、下宿に閉じこもる日々が続きました。自身の思考や感性のすべてを疑い、表現すべきものを見失う苦悩は、まるで空虚な泡のように消えていく感覚だったと振り返ります。そんな張り詰めた心を支えたのが、宮沢賢治の詩集『春と修羅』の一節でした。ノートや壁に苦悶の言葉を書き散らしながら、彫刻の道を捨てる覚悟さえ抱きつつ、自分が本当に進むべき未来を必死に模索していたのです。
焦燥感に駆られた彼が向かったのは、書店と映画館でした。当時は大島渚監督が映画界を牽引し、フランス発祥の革新的な映画運動である「ヌーベルバーグ」や、現実をありのままに描くイタリアの「ネオリアリズム」が黄金期を迎えていました。ジャン=リュック・ゴダール監督の『気狂いピエロ』やピエル・パオロ・パゾリーニ監督の『テオレマ』といった名作を銀幕で繰り返し鑑賞しては、激しく心を揺さぶられ、静かに涙を流す時間が続いたとされています。
友情に救われた暗闇の果てに勝ち取った卒業と、再び欧州へ向かう決意の航路
孤独が限界に達した夜、彼はのちに萩焼の十五代坂倉新兵衛となる同級生の坂倉正治氏の元を訪ねました。「仏の正ちゃん」と慕われた温厚な友人は、深夜の訪問にも嫌な顔ひとつせず迎え入れ、朝まで囲碁を打って過ごしてくれたといいます。何をするわけでもなく、静かに流れる時間が彼の傷ついた心を調和させていきました。その後、1973年に何とか卒業制作を仕上げて大学を卒業したものの、本質的な解決を求めて彼は再び日本を飛び出すことになります。
1973年4月中旬、彼は横浜港から船に乗り込み、ナホトカやモスクワを経由して、5月には再び思い出の地であるローマの地を踏んでいました。表向きはイタリア留学という名目でしたが、実態は運命からの逃避行であったと本人は明かしています。この多感な時期の葛藤と漂泊の旅こそが、のちに伝統の中に革新をもたらす天才陶芸家・樂直入の揺るぎない感性を育む重要な礎となったことは間違いありません。
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