大正時代の末期から始まった日本のバス事業は、道路網の整備とともに急速な発展を遂げてきました。南海電気鉄道も鉄道事業の基盤を守るため、1928年3月28日に初の関連会社となる「和歌浦急行」を設立し、地域の足としてのネットワークを広げていきます。しかし、1945年7月10日の堺大空襲によって、血のにじむような努力で集めた車両や燃料の多くが消失してしまいました。終戦直後に残されたバスはわずか4台であり、40人のスタッフで必死に運行を維持していたと伝えられています。
当時の苦境ぶりは凄まじく、10人で車をロープで引っ張った方が故障もなく目的地へ早く着くのではないかと皮肉られるほどでした。それでも、戦後復興に向けた輸送力の強化は一刻を争う最優先事項だったのです。1948年5月1日にはバス会社を本体へ統合し、新たな自動車部として再出発を図りました。こうした激動の歴史を経て、1979年3月1日には山中諄氏が自動車部業務第1課長に就任し、大阪府南部を走る路線バスの厳しい運営管理を任されることになります。
当時は誰も乗らないような赤字路線を複数抱えており、不採算路線の廃止は避けて通れない課題でした。労働組合や地元住民の同意を得るため、大阪府の岬町議会では大変厳しい言葉を投げかけられたこともあります。それでも、維持が不可能な理由を誠実に、かつ毅然と説明しきる姿勢は、現代のビジネスパーソンにとっても見習うべき重要な覚悟だと言えるでしょう。SNSでも「リーダーの強い決断力こそが組織を救う」といった、山中氏の突破力に対する称賛の声が上がっています。
さらに現場を悩ませていたのが、100人を超える運転手の勤務ローテーション表を手書きで作成する膨大な業務でした。不公平が出ないようにコースと時間を割り当てる作業は、病欠者が出ると一瞬で崩壊してしまうほど複雑なものです。そこで山中氏は、電子工学を専攻していた同期の渡辺隆氏に相談を持ちかけました。まだ表計算ソフトが存在しない時代に、コンピューターによる自動編成システムを構築した試みは、まさに時代を先取りしたDXの先駆けと言えます。
このシステム化によって運行状況の「見える化」が実現し、誰もが瞬時に情報を共有して確認できるようになりました。現場の透明性を高めることが信頼関係の構築に繋がったというエピソードは、技術の導入が単なる効率化に留まらないことを教えてくれます。1986年4月1日の社員研修など、山中氏はその後の人事業務でも多くの功績を残しました。熱い情熱と深い仲間絆によって成し遂げられた改革の物語は、現在の私たちに挑戦の価値を力強く物語ってくれています。
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