1973年のこと、住友商事でプラント設備の輸出に奔走していた鈴木博之氏は、地球の裏側にあるブラジルの現地法人へと配属されました。入社5年目という若さで、製鉄所向け設備の部門をゼロから立ち上げるという大役を任されたのです。
当時の役職は現地法人の取締役でしたが、実態は部下である新人の日系人2人を育てることから始まる、孤独な挑戦でした。引き継ぎも取引先も一切ない中、上司からは「自分の裁量で進めてほしい」と告げられ、自ら決断を下さなければならない環境に身を置くことになります。
異国の地では、文化の壁にも直面しました。サッカーのワールドカップが開催されるやいなや、社員たちが試合を観戦しに職場を離れてしまう光景は、まさにブラジルならではの洗礼といえるでしょう。こうした驚きを抱えながら、鈴木氏の過酷な日々が幕を開けました。
孤軍奮闘の1年目!実績ゼロが招いた部下への申し訳なさ
赴任から最初の1年間、受注はまったく取れず、厳しい現実に直面しました。巨大なプラント設備(工場などの大規模な生産・発電設備のこと)の受注には、日本の重工業メーカーとの連携が不可欠ですが、有力なメーカーは既に他社と強力なタッグを組んでいたのです。
さらに、競合他社が部長級のベテランを揃える中、住友商事は若き鈴木氏のみという布陣でした。実績が上がらないことで、部下の給与交渉さえも難航し、管理部門からは冷ややかな対応をされたといいます。自分の不甲斐なさが仲間まで苦しめる現実に、彼は痛恨の念を抱きました。
SNS上では、このエピソードに対して「若くしてこれほど重い責任を負うのは壮絶」「結果がすべてというビジネスの厳しさが伝わる」といった共感の声が寄せられています。鈴木氏はこの苦い経験から、ただ努力するのではなく「結果に直結する動き」の重要性を痛感しました。
逆境をチャンスに変えた「現地調達」への着眼点
転機が訪れたのは1974年、赴任2年目のことでした。ブラジル政府が入札の条件として、設備の一部を国内製品でまかなう「現地調達」を義務付けたのです。日本からの輸入に固執する他社を尻目に、鈴木氏は現地最大手のメーカーと手を組むという大胆な戦略に出ました。
サンパウロに拠点を置いていた利点を活かし、1975年にはついに鉄鋼大手ウジミナスから約3億円のクレーン受注を勝ち取ります。この成功を機に、発電やガス設備へと業容を拡大し、帰国する頃には部門の人数も3倍に膨れ上がるほどの成長を遂げたのでした。
自ら考え抜き、道なき道を切り拓く。このブラジルでの経験こそが、後の丸一鋼管での経営手腕にも繋がっているのでしょう。困難な状況でも、既存の枠組みにとらわれず現地のニーズを掴み取った彼の姿勢は、現代のビジネスパーソンにとっても大きな指針となるはずです。
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