あふれ出る言葉、肉感を伴う豊かなリズム。高橋睦郎(たかはし・むつお)という表現者の足跡を辿ると、まさに「天性の詩人」という言葉がこれほど似合う人物はいないと感じさせられます。1959年に発表された第一詩集『ミノ あたしの雄牛』から数え、既に30冊を超える詩集を世に送り出している彼は、戦後文学の巨星たちを瞬時に虜にしました。その才能の煌めきは、当時の文壇において一種の事件だったと言えるでしょう。
1964年09月、北九州から上京して3年目を迎えていた高橋氏は、銀座の広告制作会社に勤務する傍ら、第二詩集『薔薇の木 にせの恋人たち』を世に問いました。すると驚くべきことに、その3カ月後の年末、職場の電話が鳴り響きます。受話器の向こう側の主は、なんと作家・三島由紀夫でした。一面識もない大スターからの「君の詩集に感動した、会いたい」という突然の呼び出しは、一人の青年詩人の運命を大きく変えることになったのです。
SNS上でも、この伝説的なエピソードには驚きの声が絶えません。「三島が自ら電話をかけるなんて、どれほどの衝撃だったのか」「令和の今こそ、その熱量に触れたい」といったコメントが散見されます。指定された銀座の高級中華料理店に現れた三島は、ボディビルのトレーニング帰りという独特の佇まいで、料理を取り分けながら熱心に高橋氏の詩について語り続けたそうです。この出会いが、若き才能をさらなる高みへと押し上げました。
孤立を恐れぬ不屈の精神と、古典への回帰
高橋氏は「自分は本当に人に恵まれた」と当時を述懐します。1966年に刊行した第四詩集には、三島の紹介で評論家の澁澤龍彦が「跋文(ばつぶん)」を寄せました。跋文とは、書物の最後に記すあとがきや解説のことで、当時は権威ある文士が若手の才能を保証する重要な役割を担っていました。しかし、華やかな称賛の裏側で、彼は同性愛を主題に扱っていたことから、保守的な詩壇からは「アンタッチャブル」として冷遇される日々を過ごします。
20代後半から30代にかけて、名誉ある賞の候補になりながらも落選を繰り返した苦境は、現在の彼への高い評価からは想像もつきません。しかし、彼は「現代詩に負けてなるものか」と肩を怒らせ、あえて既成の枠組みを拒絶しました。この「詩そのものと繋がろう」とする執念が、彼を和歌や俳句、能・狂言といった日本の古典、さらにはギリシア悲劇などの西洋古典へと向かわせる原動力となったのは非常に興味深い点です。
筆者は、この彼の姿勢こそが、表現が矮小化されがちな現代において最も必要な「知の冒険」であると考えます。自分たちの世代の感性だけに固執せず、数千年の歴史を持つ「古典」という巨大な鏡に自らを照らし出す。その孤独な作業が、高橋氏の言葉に普遍的な重みを与えているのでしょう。現代詩という狭いジャンルを飛び越え、彼は人類が紡いできた「詩心」そのものを継承しようとしたのです。まさに、時空を超えた対話と言えます。
近年の活動も目覚ましく、雑誌「現代詩手帖」では、柿本人麻呂や紫式部といった歴史上の詩聖になり代わってその心を語る連載を完結させました。また、50年前から8度も訪れたギリシャへの想いを結実させた評論集や詩集も、2019年に入り相次いで刊行されています。しかし、その中身は決して懐古趣味ではありません。現代社会の無責任な風潮を「愚者ばんざい」と痛烈に批判する鋭さを持ち合わせており、読者の背筋を正させます。
2019年末で82歳を迎える高橋氏は、今もなお、自分を空っぽにすることを大切にしています。「自分の中が自分自身でいっぱいでは、詩が降りてくる隙間がない」という彼のアドバイスは、自己表現に躍起になる現代人への金言です。毎朝のストレッチと浜辺の散歩を欠かさず、死の先にある永遠まで、詩という幻を追い続ける漂泊の旅。高橋睦郎という詩人の肖像は、私たちが忘れてしまった「虚心に聞く」ことの尊さを教えてくれます。
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