「まさか自分が、会話に障害を抱える可能性があるなんて…」これは、大手企業で営業部長として活躍し、今年の3月に定年退職を迎えた筆者の旧友が抱えた、切実な悩みでした。彼は、その饒舌さや巧みな顧客対応、社内での人望の厚さから、まさにコミュニケーションの達人と呼ぶにふさわしい人物だったのです。そんな彼が、退職後に初めてぶつかった壁について、筆者に相談を持ちかけてきたわけです。
長年の付き合いがある筆者は、彼の話術をよく知っています。それほど会話力に長け、人との関わりを得意としていた彼が、なぜこれほどまでに悩んでいるのでしょうか。どうやら、彼が産業医から指摘されたのは「言葉に関する障害の可能性」という、コミュニケーション上の問題に関するものだったようです。適切かつ的確に相手と意思疎通ができなくなるかもしれないという事態は、彼にとって大変な衝撃だったに違いありません。
そこで、筆者は友人の許可を得て、直接産業医に話を聞いてみました。すると、友人が受け止めていた内容と、産業医が伝えた内容には、大きな違いがあることが判明しました。産業医が伝えたのは「このままの状態で長生きした場合、コミュニケーションが円滑にいかなくなる可能性がないわけではない。だからこそ、退職後も人と積極的に関わり続けてください」という、極めて真っ当で前向きな助言だったのです。友人の中で、その助言が「障害の可能性」という恐怖に変換されてしまったようですね。
筆者は、この友人のケースを通じて、企業を退職した後に直面するコミュニケーションの複雑で不安定な状況を「RC症候群」と名付け、皆さまにご紹介したいと思います。「RC」とは、Retirement Communicationを略した造語で、近い将来、広く認知されることを期待しています。これまでの会社生活で築き上げてきた、顧客や上司、部下といった多様な人間関係が、退職によって一瞬にして失われてしまう。このコミュニケーションの機会の喪失こそが、RC症候群の核にあるのです。
RC症候群の原因となる「トライアル嫌悪」とは
RC症候群の根底には、「トライアル嫌悪」という、行動経済学の考え方があります。これは、新しい物事に挑戦(トライ)した際、もし失敗した時の挫折感や後悔に対する恐怖心から、結果として挑戦を避けてしまう心理的な傾向を指し、「後悔の嫌悪」とも呼ばれています。定年退職を迎えた人々に、このトライアル嫌悪が起こりやすいと考えられています。
多くのビジネスパーソンは、就業中、仕事を通じて様々なコミュニケーションの知見を習得し、自信を育んできました。自分の得意分野や、勝手が分かっている相手とのやり取りが多いため、失敗を恐れずに積極的にコミュニケーションをとることができたのです。しかし、退職後は状況が一変します。地域社会での近隣住民との交流や、趣味のサークルでの会話など、初めての状況でのコミュニケーションが劇的に増えます。
これらはすべてがトライアル(試み)であり、失敗がつきものです。今まで仕事で培ってきた自信が通用しない場面に遭遇し、それが打ち砕かれることに恐怖を感じ、新しい交流を避けてしまう。これが、退職時に発生するRC症候群の実態なのです。インターネットのSNS上でも、「退職してから会話が減り、何を話せば良いか分からない」「地域活動に参加したいが、新しいグループに入るのが怖い」といった、RC症候群を思わせる声が数多く寄せられており、この問題の深刻さを示しています。
「人生100年時代」を生き抜くための筆者の提言
私たちはいま、人生100年時代と呼ばれる長寿社会を生きています。公的年金制度の持続性や、老後に備えた「2000万円問題」など、経済的な話題も尽きませんが、精神的・社会的な豊かさも、今後の人生を楽しく、そしてしたたかに生き抜くための重要な要素となります。筆者は、そのために何よりも必要なのは、「新たなコミュニケーションへのトライを恐れないこと」だと強く主張します。
これまでの経験や自信に固執せず、新しい自分として、知見のない分野や、未知のコミュニティへ飛び込む勇気を持つべきでしょう。新しい場所で、新しい人たちと関わることは、最初は失敗もあるかもしれません。しかし、その一つ一つのトライアルこそが、退職後の人生を豊かに彩り、RC症候群の発生を防ぐ最良の予防薬となるはずです。令和元年6月20日に本稿を執筆している筆者は、読者の皆さまが定年を迎えた後も、積極的に一歩を踏み出すことを心から願っています。

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