🔥公害阻止から県議20年へ!「ひょんげもん」後藤国利氏の闘いと故郷への情熱:大分・臼杵の未来をかけた挑戦🔥

2019年6月19日付で報じられた林業家で元政治家の後藤国利氏の半生は、故郷である大分県臼杵市への強い情熱と、常識にとらわれない「ひょんげもん」としての反骨精神に満ちたものです。もともとは製薬会社の経営者であった後藤氏ですが、そのキャリアはセメント工場誘致をめぐる住民運動への参加を機に大きく変わっていきました。当時は家業の業績が回復し始めたばかりで、薬学を学ぶために福岡大学へ入学した直後という、まさに多忙を極める時期でした。

セメント工場の建設計画が臼杵市議会で決定した1970年、後藤氏の知人である広告代理店社員から漏らされた「工場ができれば粉じんが降ってくる。変な噂が立ったら、薬は売れなくなる」という一言が、彼の意識を大きく変える転機となりました。美しい海岸線が埋め立てられることに加え、街に舞う粉じんは、粉薬を扱う製薬会社にとって深刻なイメージダウンにつながる——この危機感こそが、彼を反対運動へと駆り立てたのです。青年会議所の理事として仲間たちの前で反対論を提唱したところ、すぐにOBから呼び出され、市の計画に逆らうことへの圧力を受けました。しかし、地元の言葉で「変わり者」を意味する「ひょんげもん」としての反骨精神が湧き上がり、徹底抗戦の意思を固めることになります。

この公害反対運動は大きな社会的な反響を呼び、後藤氏は参考人として国会へも出向き、「公害の心配があるのに解消してくれない。強引なやり方に我慢ならないから反対しているのです」と、行政の姿勢を強く批判しました。特に、埋め立て予定地である風成(かざなし)地区は、船からモリを投げてマグロやカジキなどを獲る伝統的な「突きん棒漁」が盛んな場所でした。漁業協同組合は漁業権の放棄を決定したものの、反対派はこれを不服として訴訟を起こし、裁判で勝利を収めたのです。この一連の運動では風成地区の主婦たちが特に注目を浴びましたが、後藤氏のほかにも、みそ・しょうゆメーカーなどの地場企業が連携し、地域に公害をもたらす恐れのある工場進出に断固として「ノー」を突きつけました。この経験から彼は、行政の誤った判断であっても、住民の強い声でそれを覆し、正しい方向へ修正できることを深く学んだと言えるでしょう。

工場進出の断念が正式に決定した後、後藤氏のもとには市長選への出馬要請が舞い込みましたが、彼はこれを固辞しました。しかし、周囲の期待と喧騒は収まらず、一度地元を離れようと約2カ月間、東南アジアやヨーロッパへの旅に出ることにしたそうです。旅から戻った後も、工場反対運動で共に戦った仲間からの熱心な要請を断りきれず、結局は1975年の大分県議会議員選挙に、当時、金権政治への批判が高まっていた田中内閣に対する批判の受け皿となっていた社会党(現在の社民党)の推薦で立候補することを決意しました。対立候補は自民党県連の幹部という激戦でしたが、約1,500票の差で初当選を果たし、政治家としての道を歩み始めたのです。

私は、後藤氏の「ひょんげもん」ぶり、すなわち市民の声を代弁し、権威に臆せず立ち向かう姿勢こそが、彼を政治家へと押し上げた最大の要因だと考えます。彼の行動は、まさに故郷を「良くしたい」という純粋な思いの表れであり、市民運動のリーダーが地域政治に参画することの重要性を改めて示しています。選挙戦は大変厳しいもので、対立候補にはセメント工場誘致の失敗に対する「怨念」があったのではないかと後藤氏自身が振り返るほどでしたが、故郷への思いが選挙を制しました。当選後、様々な経緯を経て3期目からは自民党の公認で出馬し、最終的に県議会議員を5期20年という長きにわたり務めました。県議として多くの課題を解決し、「やりきった」という思いで政界からの引退を決意した時、財政悪化が著しい故郷・臼杵市の窮状は耳に入っていたものの、まさか後に市長を務めることになるとは、この時点では想像もしていなかったということでした。

後藤氏の一連の活動に対するSNSでの反響も大きく、「#ひょんげもん」「#市民運動の力」といったハッシュタグと共に、彼の公害阻止に向けた勇気ある行動を称賛する声が多く見受けられました。「地場企業が公害に反対するのは珍しい」「政治家への転身は自然な流れ」といったコメントもあり、その半生は多くの人々に影響を与えていることが分かります。彼のこの後の人生がどのように展開していくのか、臼杵市の未来をどう変えていくのか、引き続き注目していくべきでしょう。

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