明治42年である1909年に生を受けた父は、文壇で名を馳せた太宰治や松本清張と同い年にあたります。なかなか子宝に恵まれなかった父が、養子を検討し始めた矢先に授かったのが私でした。父が41歳の時の出来事であり、待望の長男誕生に父がどれほど胸を躍らせたかは想像に難くありません。
後年になって知人から聞いた話では、母はそれほど執着していなかったようですが、父は喉から手が出るほど子供を欲しがっていたそうです。福井の方言には、目に入れても痛くないほど愛おしい存在を指す「ちょっぽの子」という言葉があります。周囲の人々からも、私は父にとっての「ちょっぽの子」なのだと、慈しみの言葉をかけられて育ちました。
そんな父は無類のカメラ好きで、何台もの愛機を所有しては、溺愛する私の姿を熱心にファインダーに収めていました。そしてある時、私にも「リッチレイカメラ」というおもちゃのカメラを買い与えてくれたのです。おもちゃと言えど、実際にフィルムを装填して撮影が可能で、絞り調節機能まで備わった本格的な仕様でした。
幼い私も父の真似をしてカメラ遊びに興じたはずですが、不思議なことに、私が撮影した写真は一枚も現存していません。この小さなカメラを手に取ると、自分の記憶よりも先に、シャッターを切る父の姿がありありと浮かんできます。おそらく父は、息子と共通の趣味を持ち、一緒に撮影に出かける日を夢見ていたのでしょう。
実を言えば、撮られる側の私は、決して手放しで喜んでいたわけではありませんでした。街ゆく人々から好奇の視線を向けられるのは気恥ずかしく、何度も構図を変えて時間をかける父のこだわりには、正直なところ「早く終わってほしい」と辟易していた面もあったのです。
しかし、今にも溢れんばかりの幸福そうな表情でシャッターを切る父を前にして、子供ながらに無下にはできませんでした。父の期待に応えるように、私は精一杯「うれしそうな子供」を演じていたのです。そんな健気な嘘も、今となっては父への小さな親孝行だったのではないかと感じます。
SNS上では、このエピソードに対し「親の愛の深さに涙が出る」「子供なりに親に気を遣う姿に共感する」といった感動の声が寄せられています。誰しも、親が向けてくれたレンズの向こう側に、自分を肯定してくれる視線を感じた経験があるのではないでしょうか。
実家に残る私の写真は小学生時代のものが大半で、中学生になると激減し、高校から東京で一人暮らしを始めて以降は、スナップ写真の類はほとんどありません。上京後の私は、両親の期待を大きく裏切るような奔放な学生生活を送り、家族写真とは無縁の、刹那的で必死な日々を過ごしていました。
かつてはおもちゃだと思っていた一台のカメラが、長い年月を経て私の手元に戻り、自身の歩みを振り返るきっかけをくれました。写真は、撮った瞬間の景色だけでなく、その時流れていた空気や、撮影者の想いまでも保存してくれるタイムカプセルのような存在なのかもしれません。
私は、藤田氏が語る「演技をしていた」という告白に、深い家族の絆を感じずにはいられません。愛されていることを自覚しているからこそ、子供は親の幸せを守るために背伸びをするものです。このおもちゃカメラは、単なる道具ではなく、父と子の無言の対話を象徴する至高の宝物といえるでしょう。
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