街が激しい揺れに襲われ、多くの尊い命が失われたあの記憶を私たちは決して忘れません。1995年1月17日に発生した阪神淡路大震災から、2020年1月17日でちょうど25年という節目を迎えました。神戸市中央区にある東遊園地では、今年も厳かな雰囲気の中で追悼の集いが執り行われています。
会場には竹灯籠の優しい光が灯り、大切な人を想う多くの人々が訪れました。SNS上でも「#117を忘れない」というハッシュタグとともに、震災の記憶を次の世代へ語り継ごうとする書き込みがあふれています。四半世紀が経過した今もなお、人々の心にある傷痕と復興への祈りは決して色褪せることはありません。
母との最後の会話…受話器越しに残る後悔の念
この式典で遺族代表として壇上に立ったのは、神戸市内で寿司店を営む上野好宏さん(47歳)です。上野さんは、当時47歳という若さで帰らぬ人となった母の美智子さんへの想いを、時折声を詰まらせながら涙ながらに語りました。その言葉は、参列した多くの人々の涙を誘っています。
震災当時、東京の大学に通っていた上野さんは、悲劇が起きる直前に偶然実家へ電話をかけていました。母の美智子さんは「お父さんが風邪気味だから、うつらないように今日は1階で寝るわ」と愛する家族を気遣う言葉を口にされたそうです。上野さんはその時、何気なく「そうしなよ」と返答してしまいました。
しかし、その直後に発生した大地震が神戸の街を襲います。激しい揺れによって実家の1階部分は完全に押しつぶされ、美智子さんはそのまま崩落の下敷きになってしまいました。上野さんは、自分が1階で寝ることを勧めてしまったという後悔の念を、25年が経った今でも胸に抱き続けているのです。
会社を辞めて神戸へ…父と二人三脚で守った家族の証
大学を卒業した上野さんは、大手の食品メーカーに就職して会社員生活を送っていました。そのまま勤務を続けていれば、故郷である神戸に戻る機会は低かったでしょう。そんなある日、父の数好さんに将来の相談をしたところ、「お母さんが亡くなったあの場所をどうしても離れたくない」と告げられたのです。
上野さんは1ヶ月ほど悩み抜いた末に、生前の母が遺した「お父さんに何かあったら支えてあげてね」という温かい言葉を思い出しました。そこで安定した会社を辞める決断を下し、故郷へ戻る道を選びます。それから2年後、上野さんは父親とともに寿司店を切り盛りする二人三脚の歩みを始めました。
店内の特等席には、震災の2年ほど前に美智子さんが手書きしたメニューの値段表が今も大切に飾られています。時の経過とともに白かった紙は茶色く変色し、一部には破れた箇所も見られますが、額縁に入れて使い続けてきました。文字通り、このお店には今も母親の温もりが息づいているのです。
天国の両親へ誓う言葉「家族みんなで前へ進みます」
消費税の増税など時代に合わせた変化に対応するため、上野さんはメニューを外税表記にするなど工夫を凝らしてこの遺品を守り抜いてきました。外税とは、商品の本体価格に消費税を含めずに表示する仕組みのことで、税率が変わってもメニューの書き換えを最小限に抑えられるメリットがあります。
しかし、ともに苦楽を共にしてきた父の数好さんも、店舗の移転計画を進めていた2017年にがんでこの世を去ってしまいました。新しいお店でまた一緒に暖簾をくぐりたかったという無念さは計り知れません。それでも上野さんは、毎日の仕事を終えると必ず仏壇の前に立ち、線香をあげる日々を大切にしています。
人生の選択に迷った時、上野さんは「お母さんなら何て言うかな」と心の中で語りかけるそうです。返事は聞こえなくても、「がんばりなさい」と背中を押されている気がすると前を向きます。「家族みんなで一日一日をがんばります」という誓いは、天国の両親へ届く力強い復興のメッセージでしょう。
編集部が考える「1.17」を語り継ぐということ
震災から25年という歳月は、当時を知らない世代が社会の中心になりつつある長さです。上野さんのように、大切な人を失った悲しみを抱えながらも、その思い出をエネルギーに変えて生きる姿には深く胸を打たれます。私たちはこうした震災の記憶を風化させてはならず、教訓を未来へ繋ぐ義務があります。
大災害の記憶は時間の経過とともに薄れがちですが、遺族の皆様が紡ぐ物語に耳を傾けることで、防災への意識を新たにするきっかけになるはずです。悲しみを乗り越えて「前へ進む」という上野さんの強い決意を私たちは応援するとともに、この節目の日に改めて命の尊さについて考えていきたいものです。
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