1986年12月の年末にアメリカ留学から帰国を果たした私は、翌年である1987年1月から第2事業法人部という部署へ配属されることになりました。当時の日本経済は、プラザ合意後の急激な円高不況を乗り切るため、日本銀行が金融緩和政策として公定歩合の引き下げを敢行した時期です。この公定歩合とは、中央銀行が民間銀行に資金を貸し出す際の基準金利のことで、これが下がったことで世の中にお金が回りやすくなりました。結果として日経平均株価は史上初めて2万円台の大台を突破し、日本全体が異様な熱気に包まれ始めていたのです。
さらに1987年2月には、日本電信電話(NTT)が東京証券取引所1部に上場を迎え、これまで投資に縁のなかった個人投資家の裾野が一気に広がりました。こうした株価の猛烈な上昇を追い風に、当時の日本企業の間では本業以外のアセットマネジメントで利益を狙う「財テク」が一大ブームを巻き起こします。私たち事業法人マンの主な任務は、特定金銭信託、いわゆる「特金」と呼ばれる企業向けの株式運用をお手伝いすることでした。特金とは、企業が信託銀行に資金を預け、証券会社などの指図によって具体的に株式などを運用する仕組みのことです。
驚くべきことに、市場から集めた大切な資本を工場などの設備投資には一切使わず、すべてをこの特金などの運用に回してしまう企業が続出しました。本業で稼ぐ利益よりも、株の運用益の方が多いという本末転倒な会社も決して珍しくはなかったのです。新米の私が担当を任されたのは、キヤノンをはじめとする誰もが知る有名企業ばかりでした。これほどの大企業でありながら、彼らは幸いにも資産運用に対してそこまで血眼になっていなかったため、経験の浅い私にお鉢が回ってきたのでしょう。
当時の証券マンたちは、他社とのシェア争いに神経をすり減らす資金調達の仕事よりも、動く金額が大きく華やかな資金運用の仕事を圧倒的に好んでいました。市場の金利が当時の史上最低水準である2.5%まで引き下げられたこともあり、株式相場は全体として非常に堅調に推移していたのです。しかし、そんなイケイケの市場にも1987年10月、アメリカを発端とした世界同時株安である「ブラックマンデー」が襲いかかり、株価が急落する場面もありました。
企業が特金で運用している株に大きな含み損を抱えたまま決算期末を迎えると、企業の経営成績が見かけ上悪くなってしまいます。そこで、その損失を隠蔽するために生み出されたのが、決算期の異なる別の企業に一時的に株を転売し、損失の表面化を防ぐ「飛ばし」という手法でした。これはバブルが崩壊する以前から、日常的に行われていた悪質な慣行です。当時は少し待てば相場が再び上昇基調に戻ったため、株価が回復したのを見計らって買い戻せば、書類上は何事もなかったかのように処理できました。
この「飛ばし」を引き受ける側の企業にとっても、一時的に株を預かるだけで年10%近い法外な金利収入が得られたため、リスクを大して恐れることもなく、喜んで損失の受け皿になっていたのです。相場が下がれば損が出るのは当然の原理ですが、当時は元本保証どころか、年7%といった利回りを証券会社が約束するケースすら横行していました。これは「にぎり」と呼ばれ、正式な契約書はなく、あうんの呼吸や、名刺の裏の覚書だけで成立していたというから驚きです。
巨額の売買注文をくれる企業の財務担当者は、証券会社にとってまさに神様のような存在でした。そのため、値上がりが確実視される新規発行の転換社債をこっそりと優先的に割り当て、上場初日に売却させて確実に利益を得させるような裏工作が、どこの証券会社でも当たり前のように行われていたのです。当時は「企業の財務担当役員を3年やれば家が建つ」とまで囁かれていました。ネット上のSNSでも「今のコンプライアンスからは考えられない無法地帯」「あうんの呼吸で億単位が動くなんて狂気の沙汰」といった驚きと呆れの声が溢れています。
このような、今なら即座に逮捕されるような滅茶苦茶な悪習が、いつまでも通用するはずがありません。しかし、株価は右肩上がりで上がリ続けるものだと盲信している我々の世代は、この歪んだ構造の危険性に気づけずにいます。1990年にバブルが崩壊し、株式相場が長い暗黒期に入ってもなお、証券関係者は目を覚まさず「飛ばし」を繰り返すでしょう。最後には引き受け手がいなくなり、破綻へと向かう日本の金融界ですが、私たちは今まさに、その巨大な地雷を自らの手で埋め続けている最中なのです。本業を疎かにしたマネーゲームがいかに危険か、私たちは身を以て知ることになります。
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