かつて東京湾の最奥部に位置する三番瀬(さんばんぜ)は、多種多様な貝類が育つ豊かな遠浅の海でした。1908年3月1日に発行された「東京湾漁場図」を紐解くと、アサリやハマグリといったお馴染みの名前が至る所に記されています。しかし、高度経済成長期の埋め立てや地盤沈下によってその姿は一変してしまいました。厳しい環境変化のなかで、地元の千葉県市川市漁業協同組合は、ノリ養殖からアサリなどを狙う採貝漁業へと舵を切ることになります。
時代の変化に合わせて、漁師たちの技も進化を遂げました。かつては腰にカゴを繋いで浅瀬を進む「腰巻漁(こしまきりょう)」が主流でしたが、やがて船のウインチでロープを巻き上げる機械的な「大巻漁(おおまきりょう)」へと移行します。こうして深場での操業が可能になりましたが、1990年代に入るとアサリの生産量が急激に落ち込んでしまいました。その最大の原因となったのが、東京湾をたびたび襲う「青潮(あおしお)」という自然現象です。
ここで専門用語を優しく解説しておきましょう。青潮とは、海の底に溜まった酸素の少ない水(貧酸素水塊)が、風の影響で海面に湧き上がる現象を指します。この水には硫化水素が含まれており、海が青白く濁って見えることからその名が付きました。この青潮がアサリを直撃し、多くの貝が窒息して死んでしまったのです。SNS上でも「自然の脅威とはいえ、江戸前のアサリが減っていくのは本当に寂しい」と、当時の状況を惜しむ声が数多く寄せられています。
絶望を救った救世主と未来への課題
そんな漁業者たちの窮地を救ったのが、北米原産の二枚貝「ホンビノスガイ」でした。外航船の船体を安定させるための「バラスト水」に混ざって東京湾にやってきたとされています。この貝は非常にタフで、アサリが苦手とする貧酸素環境にも耐える強い生命力を持っていました。2005年ごろから急激に水揚げ量が増え、蒸しても焼いても絶品であることから一躍人気食材となります。2017年には「千葉ブランド水産物」にも認定されました。
ネットやSNSでは「ホンビノスガイは肉厚でジューシー!」「クラムチャウダーにすると最高に美味しい」と、今や多くのグルメファンを魅了しています。市川市漁協の沢田洋一さんは、三番瀬を「変化は激しいけれど、回復力も強い海」と表現されています。しかし、近年の気候変動による海水温の上昇や、2019年10月12日に日本を襲った台風19号の泥水によって、せっかく戻りつつあったアサリが再びへい死する事態も起きています。
私たちは、この豊かな海の恵みを当たり前だと思ってはなりません。ホンビノスガイという新たな主役の誕生は喜ばしいことですが、本来の江戸前アサリが再び溢れる海を取り戻すことも切に願うばかりです。地球規模の気候変動に直面するいま、三番瀬が持つ本来の「回復力」を信じ、私たちが海を守るために何ができるのかを真剣に考えるべき局面が来ています。伝統ある漁業の灯を絶やさないためにも、持続可能な環境づくりを応援していきましょう。
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