2019年5月、世界の株式市場が米中衝突のリスクに怯え、投資家が資金を引き揚げる中、ベトナムの株式相場が異例の堅調さを見せています。同年5月5日、米国のトランプ大統領が対中関税の引き上げを表明する「怒りのツイート」を発して以来、世界の株式投資信託からは5月24日までに400億ドル近くが流出するという、2012年8月以来の速いペースで資金が逃避していました。しかし、ベトナムの代表的な株価指数であるVN指数は、5月半ば以降、ツイート前の水準を上回る場面さえ見せていたのです。
このベトナム株の強気の背景には、「ベトナムが米中貿易戦争の漁夫の利(ぎょふのり)を得る」という投資家の読みがあります。漁夫の利とは、二者が争っている間に第三者がその利益を横取りすることのたとえです。実際、対米輸出の生産拠点を中国からベトナムへと移す動きは、日本企業を含め、続々と顕在化しています。低賃金、勤勉な労働力、そして外資に友好的な規制環境といった多面的な魅力を持つベトナムは、今や「世界の工場」中国に代わる新たな生産地として、世界の注目を集めているのです。
しかし、本稿コメンテーターの私は、この楽観的な見方には、少々立ち止まって考えるべき「暗部」があると感じています。ベトナムという国を糸口として現状を深く掘り下げると、米中貿易戦争がもたらす様々な問題が、まるで芋づる式に浮き彫りになってくるのです。それは、「世界の工場」としての地位が揺らぎ始めた中国が直面する試練、対中強硬策を打ち出した米国が抱える政策の矛盾、そして、漁夫の利を得たはずのベトナム自身に忍び寄る「悪夢のシナリオ」であり、これらすべてが複雑に絡み合っていると言えるでしょう。
中国の試練:生産コスト上昇と高度化への挑戦
中国の苦悩を知るヒントは、自動車の生産ラインなどで使われる空気圧機器の日本メーカー、SMCの戦略に見ることができます。同社は現在、ベトナムのホーチミン近郊と中国の天津に工場を建設中です。ベトナムでの生産は、既存の中国工場の生産コスト上昇と、米国による制裁関税という脅威が背景にあるからです。実は中国は、米中衝突がなくても、すでに**「立地競争力を失った10年」のただ中にありました。
2011年に米ボストンコンサルティンググループが出したレポート「メイド・イン・アメリカ 再び」は、中国での賃金や輸送費の高騰を考えると、中国が米国に対する生産地としての優位性を5年で失うという大胆な分析を行い、当時、大きな議論を呼びました。予測通り、中国での生産コストは静かに上昇し続け、そこに制裁関税という「衝撃波」が加わったことで、問題が一気に露呈し、企業はベトナムのような低コスト国へと追いやられたのです。しかし、SMCが天津にも工場を建てるのは、中国国内での省力化投資が拡大すると見込んでいるためです。コストが上昇する以上、競争力を保つには、工場の自動化に使われるSMCの空気圧機器のような技術による生産性の高度化が不可欠であり、ここに中国の苦境と、それを逆手に取った課題解決への取り組みが映し出されていると言えるでしょう。
米国の矛盾:貿易赤字削減の死角
次に、製造業のベトナムシフトという観点から米国を見ると、そこにも大きな矛盾が浮かび上がります。対中強硬策の一端を担うウィルバー・ロス商務長官は、リーマン危機の後の2008年、保護主義論が台頭した際に、「中国に圧力をかけても、企業はベトナムで生産するだけだ」と嘆いていた過去があります。これは、中国製品の輸入を止めても、企業は生産拠点をベトナムに移し、そこから米国に輸出するため、米国の対中貿易赤字は減っても、貿易赤字全体は減らず、米国が失った雇用も戻ってこないという現実を突いた警告でした。
当時のロス氏の懸念は、今まさに的中しつつあります。しかし、再選を目指すトランプ大統領も、それを支えるロス氏も、この矛盾を認めるはずがなく、「力による赤字減らし」という対外圧力を続けるでしょう。私は、この政策の死角が、今後の米国の外交姿勢をさらに複雑にすると見ています。
ベトナムの憂鬱:標的化される経済構造
そして、漁夫の利を得ているはずのベトナム自身にも、楽観視できない「憂鬱」が漂っています。ベトナムが対米輸出の拠点として存在感を高めるにつれて、今度は米国の標的になるというシナリオです。2019年5月28日、米財務省は、ベトナムを通貨安誘導を牽制する「監視リスト」に追加しました。米国の対ベトナムのモノの貿易赤字は、昨年は395億ドルと、この10年間で4倍にも膨れ上がっており、中国、日本などに次いで6番目に大きな赤字国です。
中国からの生産シフトが続けば、この赤字はさらに拡大することは確実であり、その先にあるのは、米国の圧力と外国企業のベトナム離れという、中国が今直面している苦しみにほかなりません。ベトナムに高笑いをする余裕はないでしょう。移り気な外国企業の投資に頼るだけでなく、競争力のある自前の企業を育成することが喫緊の課題となっています。
その点で注目されるのが、複合企業最大手のビングループの動向です。同年6月には、史上初の国産ブランドの小型乗用車を発売する予定で、5月21日には、副首相らが首都ハノイのイベントで「ベトナム人はベトナムの製品を使おう」という国を挙げたキャンペーンを盛り上げ、このクルマの展示場を訪れていました。衣類などの労働集約的な産業が得意だった同国にとって、自動車のような資本集約的な産業構造への転換は容易なことではありません。隣国には、すでに競争力を確立している自動車産業を持つタイが控えているという厳しさもあるのです。
さらに、構造改革の時間は限られています。ハノイでは、韓国のサムスン電子**がスマートフォンの生産拠点を他国に分散させるのではないかという不安がくすぶっていました。ハノイでのスマホ生産は、サムスンの世界生産の50パーセントに達しており、何らかの理由で生産が止まった場合のベトナム経済への打撃は計り知れません。この現地の不安を掻き立てる背景には、ベトナムの輸出全体の20パーセント以上をサムスン一社に頼っているという、歪んだ経済構造があると言えるでしょう。SNSでも、「ベトナムもいつまで安泰か」「中国の二の舞になる前に構造改革を」といった懸念の声が上がっています。ベトナムがこの追い風が続く間に、経済構造改革を断行できるか。それが、株式市場の楽観的な雰囲気に潜む「憂鬱」を振り払えるかどうかを決めることになると、私は確信しています。
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