2019年5月29日、元欧州中央銀行(ECB)総裁のジャン=クロード・トリシェ氏が、東京都内で日本銀行が主催した会議において講演を行いました。この講演の中で、トリシェ氏は、日本の財政赤字に対する楽観論、すなわち「日銀が国債を買い入れているおかげで金利が低く抑えられているため問題ない」という主張に対し、「それは大きな間違いである」と強い言葉で異を唱えられました。そして、「金利が低くても、それが永遠に続くわけではない」と、将来のリスクについて明確に警鐘を鳴らされています。
トリシェ氏のこの発言は、最近注目を集めている「現代貨幣理論(MMT:Modern Monetary Theory)」を念頭に置いた質問に答える形で飛び出しました。MMTとは、非常にざっくりと説明すれば、「自国通貨を発行できる国は、インフレにならない限り、政府の債務(借金)が増えても財政赤字の膨張は問題ない」と主張する学説のことです。この理論は、特に財政規律を重視する従来の経済学とは一線を画しており、世界的な論争を巻き起こしています。トリシェ氏は、こうした「財政赤字容認論」に対して、真っ向から異論を唱えた格好だと言えるでしょう。
トリシェ氏の懸念の根底には、ECB総裁時代に経験されたリーマン・ショックと、その後に続いた欧州債務危機の苦い経験があります。彼は、リーマン・ショックという危機が訪れるまでは、ユーロ市場では国債のデフォルト(債務不履行)リスクを示すリスクプレミアムはほとんど見当たらなかったと振り返っています。リスクプレミアムとは、リスクが高い投資に対して、その対価として上乗せされる金利のことです。
しかし、「(欧州債務危機という)本当のドラマが始まったのは、危機から1年半後だった」と、トリシェ氏は過去を振り返りました。平時では見えないリスクが、危機をきっかけに一気に噴出し、市場が大混乱に陥った歴史を目の当たりにしてきたからこそ、彼は日本の財政状況に対する安易な楽観論を強く戒めているのです。確かに、ユーロ建てで債務を抱えるユーロ圏各国と、自国通貨である円建てで債務を抱える日本とでは、金融環境は異なります。しかし、トリシェ氏が指摘する「金利が永遠に低いわけではない」という原則は、どの国にも共通する真理であると私は考えます。
SNSでも、「トリシェ氏の警告は重い」「MMTが日本で現実になるのは怖い」といった、財政規律に対する危機感を覚える声が多く見受けられます。国の借金を国民が最終的に背負うことを考えれば、中央銀行による国債購入で金利が抑えられているからといって、無制限に財政赤字を容認することは、未来世代へのツケ回しに他なりません。私たちは、トリシェ前総裁の経験に基づいた重い警鐘を真摯に受け止め、財政の健全化に向けた議論を深めていく必要があるでしょう。
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