かつて民主化の象徴として世界中から喝采を浴びたアウン・サン・スー・チー国家顧問が、大きな岐路に立たされています。2019年12月11日、彼女はオランダ・ハーグにある国際司法裁判所(ICJ)の法廷に立ちました。ICJとは、国家間の紛争を法的に解決する国連の主要な司法機関です。今回の出廷は、ミャンマー国内のイスラム系少数民族であるロヒンギャへの迫害が、ジェノサイド条約に違反しているとして提訴されたことによるものです。
西アフリカのガンビアがイスラム協力機構を代表して訴えたこの裁判で、スー・チー氏は驚くべきことに国軍の正当性を主張しました。2016年10月以降に展開された凄惨な掃討作戦について、彼女は「不完全で誤解を招く主張だ」と反論を展開したのです。70万人以上がバングラデシュへ逃れる事態となったこの悲劇に対し、かつてのノーベル平和賞受賞者が軍を擁護する姿は、国際社会に言葉を選ばぬほどの衝撃と冷ややかな失望を与えました。
SNS上では「自由の女神は死んだのか」といった厳しい批判が相次ぐ一方で、ミャンマー国内では彼女を支持する熱狂的な集会が開かれています。この温度差こそが、現在のミャンマーが抱える複雑な事情を物語っているでしょう。2020年に控えた総選挙を見据え、彼女は国際的な名声よりも、国内での政治的基盤を固める道を選んだといえます。しかし、短期的な支持率向上と引き換えに、国を長きにわたって傷つけるリスクを背負ったのです。
建国の父の娘としての矜持と政治的打算
専門家の多くは、法律家でもない彼女が自ら出廷したことを疑問視しています。しかし、彼女の根底には「建国の父」アウン・サン将軍の娘として、何があっても祖国を守り抜くという強烈な使命感があるのでしょう。現在、ミャンマー国内ではロヒンギャに対する厳しい感情が渦巻いており、停滞する経済への不満を外へ向ける格好の材料となっています。この状況下で国軍を庇うことは、政権与党である国民民主連盟の支持を盤石にする効果がありました。
さらに深い背景には、国軍とのデリケートなパワーバランスが存在します。憲法改正などを巡り軍と対立する中で、あえて軍の盾となることで、彼らをコントロール下に置こうという高度な政治的駆け引きが透けて見えます。自分が軍の擁護者として振る舞えば、軍もまた彼女に対して妥協せざるを得なくなるという計算です。ですが、こうした内政重視の姿勢は、ミャンマーを再び軍事政権時代のような国際的孤立へと引き戻す危険を孕んでいます。
もし欧米諸国が投資を引き揚げれば、ミャンマーに残された選択肢は中国の経済圏構想「一帯一路」に飲み込まれることだけかもしれません。中国にとって、インド洋への出口を持つミャンマーは地政学的に極めて重要な拠点です。孤立したミャンマーが中国に依存せざるを得なくなれば、真の意味での独立が失われる皮肉な結果を招くでしょう。私は、彼女の決断が「殉教」ではなく、危うい橋を渡る「ギャンブル」に見えてなりません。
かつて彼女は、人を堕落させるのは力ではなく「恐怖」であると説きました。今、彼女自身が「力を失う恐怖」に突き動かされているのだとしたら、これほど悲しいことはありません。日本や米国は、人道的な懸念を伝えつつも、彼女を完全に突き放して中国側へ追いやらぬよう、粘り強い関与を続けるべきでしょう。2019年12月28日現在、歴史の審判はまだ下されていませんが、彼女の言葉が今一度、彼女自身の心に届くことを願うばかりです。
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