阪神淡路大震災の悔いから東日本大震災の支援へ!元神戸製鋼ラグビー部主将・大西一平さんが繋ぐ健康の絆と被災地ウオーキング教室の軌跡

伝説のラグビーチームで全国7連覇という偉業を成し遂げた、元神戸製鋼ラグビー部主将の大西一平さん。55歳になった現在も、東日本大震災の被災地で精力的な支援活動を展開しています。ラグビー指導者としての経験を遺憾なく発揮し、災害時の健康維持や運動不足を解消するためのボランティア活動に奔走しており、その訪問先はすでに450カ所を超えました。この驚異的な数字の背景には、1995年に発生した阪神・淡路大震災の際に抱いた、ある強い悔恨の念が原動力として隠されているのです。

2019年9月中旬、東日本大震災の傷痕が残る福島県郡山市の仮設住宅集会所には、元気な声が響いていました。大西さんは集まった約50人の高齢者を前に、自分の足で力強く歩くことの重要性を熱心に説いています。椅子を使わずに膝を曲げる空気椅子テストや、座ったまま膝の曲げ伸ばしで負荷をかけるトレーニングなど、実践的なプログラムが次々と行われました。参加者からは「かなりきついけれど、毎日続けて元気に歩けるようになりたい」と前向きな笑顔がこぼれ、大きな活気に包まれています。

SNS上でもこの活動は注目を集めており、「現役時代の熱いプレーそのままに、今度は被災者の心と体を支えている姿に胸が熱くなる」「プロの指導だからこそ、説得力があって続けたくなる」といった感動や称賛の声が相次いでいます。単なる一時的な物資支援にとどまらず、被災された方々の「その後の人生」の質を高めるためのアプローチは、多くの現代人の心に深く刺さっているようです。専門的な知見に基づいた運動プログラムは、まさに暗闇を照らす希望の光と言えるのではないでしょうか。

スポンサーリンク

阪神淡路大震災での葛藤と東日本大震災での転機

1995年1月15日に悲願の7連覇を達成したわずか2日後、大西さんの第二の故郷である神戸市は未曾有の大災害に襲われました。大西さんも必死に物資を届けるなど支援に奔走しましたが、同年春から東京の大学でのコーチ就任が決定していたため、苦渋の決断で神戸を離れることになります。「大変な時期に街を去っていいのか」という葛藤は、その後のプロコーチ人生の裏側で、ずっと消えないトゲとして残り続けていたそうです。

そんな大西さんに転機が訪れたのは、2011年の東日本大震災でした。さらに、自身がラグビー留学を経験したニュージーランドのクライストチャーチでの地震や、かつての宿敵であった新日鉄釜石の本拠地である岩手県などの被災が重なります。過去の悔いを晴らすかのように、大西さんは震災発生からわずか3日後に現地入りを果たしました。食料や衣類を届けるだけでなく、被災地で特に深刻化しやすい「ロコモティブシンドローム」の予防へと動き出します。

ここで解説を加えますと、ロコモティブシンドローム(運動器症候群)とは、骨や筋肉、関節といった運動器の障害によって立ち上がることや歩行が困難になり、要介護になるリスクが高まった状態を指します。避難所生活や仮設住宅での狭い空間は、日常の活動量を激減させ、この症状を急速に進行させる恐れがあるのです。大西さんは阪神大震災の教訓から、この運動不足による健康被害、とりわけ「歩くこと」ができなくなる危機の重大性にいち早く気づいていました。

そこで大西さんは整形外科などの専門医とタッグを組み、医学的エビデンスに基づいたウオーキング教室のプログラムを構築したのです。現在は各自治体で活動を継続できる後進の育成に力を注いでいるほか、3人1チームで行う「ストリートラグビー」を導入し、2019年のラグビーワールドカップ日本大会の盛り上がりを被災地の元気へと繋げています。被災者同士が自主的に運動を楽しめる仕組みを構築するその姿からは、真の復興を願う熱い情熱が伝わってきます。

筆者は、この大西さんの活動こそが「真の寄り添い」であると考えます。一過性の同情ではなく、被災者が自立して健康に生きるための仕組みを作ることは、一朝一夕でできることではありません。過去の別れの悔しさを、目の前の人々を救う圧倒的なエネルギーへと昇華させた生き様には、深い敬意を表さざるを得ません。「復興に終わりはない」と語る名主将のスクラムは、形を変えて今も被災地の未来を力強く押し進めています。

コメント

タイトルとURLをコピーしました