パナソニックの創業者である松下幸之助氏は、日本古来の文化である茶道に深い情熱を注いでいたことで知られています。彼は単に趣味として楽しむだけでなく、高野山金剛峯寺の「真松庵」や大阪城西の丸庭園の「豊松庵」など、名だたる場所に素晴らしい茶室を寄贈してきました。これらのお茶の空間は、ビジネスの喧騒を離れて心を整え、相手を敬う「おもてなしの心」を育むための大切な拠点となってきたのです。
創業者の精神を現代に継承するため、パナソニックは2018年、東京・日比谷に誕生した新拠点「東京ミッドタウン日比谷」の中に本格的な茶室を設けました。その入り口を飾るのは、裏千家第16代家元である千宗室氏が力強く筆を振るった「得心軒(とくしんけん)」という扁額(へんがく)です。扁額とは建物の門や室内に掲げる看板のようなもので、その場所の魂を象徴する重要な役割を果たしています。
「得心」という言葉には、心の底から納得するという深い意味が込められています。お家元は、真の意味で納得するためには、まず自分の中にある不要なものを外へ吐き出し、その上で本当に必要なものを取り入れなければならないと説かれました。この教えは、情報過多な現代社会を生きる私たちにとっても、本質を見極めるための大切な指針となるでしょう。SNS上でも「断捨離の究極の形だ」「ビジネスの決断にも通じる」と大きな共感を呼んでいます。
長栄会長はこの教えを、自身の命に関わる体験や創業者の先見性と重ね合わせて捉えています。2000年、彼はインドネシアの子会社で社長を務めていた際、壮絶な交通事故に巻き込まれました。社用車での移動中に発生した3台の玉突き事故により、車のボンネットは無残にも「への字」に折れ曲がってしまったのです。しかし、正しく装着していたシートベルトが盾となり、長栄氏は奇跡的に守られました。
実は、このシートベルトの重要性を誰よりも早く唱えていたのが松下幸之助氏でした。彼は安全に対する「リスク管理」、つまり将来起こりうる危険を予測して対策を講じる重要性を、まだ世間が意識し始めるずっと前から認識していたのです。茶道で培われる「一期一会」の緊張感と、万が一に備える冷徹なリスク管理。一見すると正反対に思えるこれらは、実は相手や自分の命を大切にするという一点で深くつながっています。
長栄氏が語るエピソードを拝読すると、伝統文化を重んじることが決して古臭い習慣ではないと痛感させられます。茶室という静謐な空間で自分を空にし、最悪の事態をも想定して万全を期す姿勢こそが、100年続く企業の強さの源泉なのかもしれません。私たちも日々の生活の中で、心に「得心」のスペースを作り、身の回りの安全という基本を今一度見直したいものです。
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