私たちは毎日、当たり前のように自分の名前を使っています。しかし、その名前は自分で決めたものではなく、大抵は親など誰かから贈られたものです。さらに自分で名乗る機会よりも、学校や職場で誰かから呼ばれることの方が圧倒的に多いのではないでしょうか。このように身近でありながら、自分では自由にならない「名前」という存在について、深く掘り下げた一冊が誕生しました。2020年01月25日に書評が公開された村岡晋一氏の著書『名前の哲学』(講談社・1600円)が、今まさに多くの読者の間で強い関心を集めています。
SNS上でもこのテーマは大きな反響を呼んでおり、「自分の名前なのに自分だけのものじゃない感覚の正体が分かった気がする」「普段何気なく呼ばれている名前に、これほど深い意味が隠されていたとは驚きだ」といった声が続々と上がっています。西洋の伝統的な哲学において、言葉は世界の「真理(真実の姿)」を正しく語るための道具として重視されてきました。ところが、プラトンやアリストテレスが築いた言語論の歴史では、特定の個人や場所を指す「固有名詞(固有の名前)」の役割をうまく説明できず、長年厄介者扱いされてきたと著者は指摘します。
一方で本書がスポットを当てるのが、近代以降のユダヤ系思想家たちによる言語の捉え方です。彼らの思想をひもとくと、名前が持つ「他者との共生(共に生きること)」を支える強力なパワーが見えてきます。名前は単に人を区別するために外側からペタッと貼られたレッテルではありません。お互いに名前を呼びかけ合うという行為そのものが、人と人が心を通わせる「対話の基盤」になっているのです。私は、この視点こそがギスギスしがちな現代社会における人間関係をリセットする大きなヒントになると考えています。
著者は、独自のアイデンティティー(自分が自分であるという証明)が揺らぐ中でこそ、深い名前論が育まれたと分析します。かつて独自の言語や文化で国家が作られたドイツやフランスでは、マイノリティであるユダヤ系の人々の名前に多くの厳しい制限が課せられていました。その逆境の中で彼らは、名前が持つ本当の重みに気づいたのでしょう。驚くべきことに、名前がもたらす共生の絆は、すでに亡くなった「死者」にまで届くといいます。お墓に刻まれた名前を呼ぶとき、私たちは時空を超えてその人とつながることができるのです。
誰かとつながるための共同体を新しく作り出すことが難しくなっている今だからこそ、本書のメッセージは私たちの心に深く刺さります。インターネットの普及によって顔が見えないコミュニケーションが増えた現代ですが、だからこそ相手の名前を丁寧に呼ぶという原点に立ち返るべきではないでしょうか。自分を縛るものでもあり、他者と優しくつながる架け橋でもある名前の不思議。この哲学的なアプローチは、私たちが明日から交わす挨拶や対話の景色を、きっと豊かに変えてくれるに違いありません。
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