【雲仙普賢岳 災害伝承】大火砕流から28年、忘れない「いのりの日」の誓い

1991年(平成3年)6月に発生した雲仙・普賢岳(長崎県)の大火砕流は、平成に入って最初の大規模な自然災害として、多くの方々の記憶に深く刻まれています。この悲劇的な災害から28年目の節目にあたる2019年(令和元年)6月3日、被災地である長崎県島原市では、発生時刻である午後4時8分に合わせて防災サイレンを鳴らし、犠牲者の冥福を祈る遺族や関係者による厳粛な黙祷が捧げられました。島原市では、この日を**「いのりの日」と定めており、その名称の通り、祈りを捧げ、命の重さを改めて噛みしめる一日となっています。

大火砕流では、報道関係者や警戒にあたっていた消防団員らを含む、43人もの尊い命が奪われました。火砕流とは、噴火によって生じた高温の火山ガスや火山灰、岩塊などが一体となって、山の斜面を高速で流れ下る現象です。その速度は時速数十kmから数百kmにも及び、発生からわずかな時間で広範囲に甚大な被害をもたらす極めて危険な現象で、この時の大火砕流もその破壊的な威力を示しました。

当時、消防団の詰め所として利用されていた島原市北上木場町の農業研修所跡地にも、多くの遺族の方が訪れました。そこで亡くなられた消防団員のお父様を偲び、缶ビールやたばこを地蔵に供え、静かに手を合わせる姿が見られました。この日訪れた方の中には、当時4歳の長女と共に来られた大町亮介さん(34歳・同県大村市の福祉施設職員)もいらっしゃいます。ご自身もお父様が亡くなった当時の年齢に近づき、「あっという間に28年が経った」としみじみと語られました。大町さんは、この経験を次世代に噴火災害の教訓として、しっかりと伝えていきたいという強い思いを胸に、静かに黙祷を捧げられたそうです。

また、火砕流発生時に報道陣の取材拠点であり、同僚のカメラマンが亡くなったという、「定点」と呼ばれる場所にも多くの人々が訪れ、花束が手向けられました。福岡市中央区から訪れた浦里和弘さん(64歳・無職)は、「近況を報告し、見守っていてと手を合わせた」と語り、亡くなった方々への変わらぬ思いを胸に、手を合わせる人々の姿が印象的でした。災害から長い年月が経過しても、亡くなられた方への追悼の気持ちと、災害の記憶を風化させてはならないという防災の誓いは、被災地の人々の中に深く根付いていることが分かります。

この28年という歳月は、遺族の方々にとっては、愛する人を失った悲しみを抱えながらも、懸命に生きてこられた時間であったことでしょう。私たちの社会全体にとって、この悲劇を単なる過去の出来事として終わらせず、火山大国である日本の未来を担う子どもたちへ、災害伝承として語り継いでいく責任があります。その意味で、島原市が定めた「いのりの日」**の持つ意義は極めて大きいと言えます。この日、被災地で交わされた静かな祈りと誓いこそが、未来の命を守るための確かな力となることを、心から願うばかりです。

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