私たちの給料日が、スマートフォンのアプリひとつで完結する未来がすぐそこまで来ているはずでした。政府は2019年度中の「給与デジタル払い」解禁を目指して動いていますが、その歩みは今、大きな壁にぶつかっています。電子マネーで直接給与を受け取れる仕組みは、利便性の向上だけでなく金融業界に革命を起こすと期待されていただけに、現在の停滞を惜しむ声が広がっています。
SNS上では「銀行からチャージする手間が省けて嬉しい」という期待がある一方で、「アプリを運営する会社が潰れたら給料はどうなるのか」という不安も根強く、議論を呼んでいます。実は、この「万が一の際の保障」こそが、議論を停滞させている最大の原因なのです。IT企業などの資金移動業者が破綻した際、銀行の預金保険のように迅速に現金を払い戻せる仕組み作りが、想像以上に難航しているのが実情です。
そもそも、日本の「労働基準法」という法律には、賃金支払いの厳格なルールが存在します。1947年4月7日に制定されたこの法律では、給与は「通貨(現金)」で直接支払うことが大原則とされています。現在、私たちが当たり前のように利用している銀行口座への振り込みも、実は労働者の同意を得た上での「例外的な扱い」に過ぎないという点は、意外と知られていない事実かもしれません。
制度設計を阻む「安全網」の壁と関係各所の思惑
政府が2019年6月に発表した成長戦略の実行計画では、できるだけ早期の制度化を掲げました。しかし、厚労省と金融庁の間では、具体的なルール作りを巡って膠着状態が続いています。銀行並みの厳しい規制を事業者に課せば、サービスの魅力が削がれてしまいます。かといって規制を緩めれば、労働者の大切な財産を守れないというジレンマに陥っているのです。まさに「お見合い」をしているかのような停滞ぶりです。
労働組合の全国中央組織である「連合」も、この動きには慎重な構えを見せています。資金移動業者が破綻した場合、現在は供託金制度などで資産は保全されているものの、実際に手元へお金が戻るまでには財務局での煩雑な手続きが必要となり、時間がかかりすぎます。給与は生活の基盤ですから、数日間でも引き出せない事態になれば、労働者の生活が立ち行かなくなるリスクは無視できないでしょう。
一方で、銀行業界が抱く警戒感も無視できません。給与振込口座は、銀行にとって「質の高い預金」を確保するための生命線です。ここから顧客が離れてしまえば、金融機関としての経営基盤そのものが揺らぎかねません。マネーロンダリング(資金洗浄)対策やサイバー攻撃への懸念を理由に挙げてはいるものの、本音の部分では既存のビジネスモデルが崩壊することへの恐怖があるのではないでしょうか。
世界に目を向ければ、アメリカなどでは「ペイロールカード」という仕組みがすでに浸透しています。2017年の調査では4割近い企業が導入しており、銀行口座を持たない層にとっても重要な決済手段となっています。新しい技術を柔軟に取り入れるスピード感において、日本が立ち遅れている印象は否めません。利用者の利便性と安全性のバランスをどう取るか、政治と行政の真の実行力が試されています。
私は、このデジタル払いの導入には大賛成です。しかし、利便性の陰に隠れた「リスク」を個人の自己責任にするのではなく、国が強固なセーフティーネットを構築することが大前提だと考えます。銀行、行政、IT事業者が互いの権益を守るのではなく、常に「働く人の暮らし」を最優先に考えた議論を進めてほしいものです。早期の議論再開と、納得感のある制度設計が待ち望まれます。
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