秋田での経験を糧に、次なるステージへと進んだ澤部肇氏が1964年11月30日に配属されたのは、川崎市に位置する玉川事業部でした。ここは音声や映像用テープを製造する約400人規模の工場で、当時はまだカセットテープすら存在しない時代です。澤部氏が最初に任されたのは、工場の運営を支える人事や総務という「縁の下の力持ち」の役割でした。
現場からは「残りの休暇はあと何日か」という問い合わせや、インフラの不具合に対する苦情が絶え間なく寄せられます。正直なところ、当初は学生気分が抜けず、こうした地味な業務に面白みを感じられなかったといいます。しかし、後に管理職として手腕を振るう中で、この時の経験が「前線を支える影の役割」の重要性を知る貴重な学びとなりました。
現状を打破しようと、澤部氏は身近な工夫を凝らし始めます。形骸化していたタイムレコーダーに代わり、赤白の木札で出退勤を一目で判別できる仕組みを導入。さらに、若手女性社員をサポートする「シスター制度」を創設しました。これは先輩が後輩をマンツーマンで指導する教育体制のことで、不慣れな環境で働く若者の心の支えとなったのです。
「会社が潰れる?」不況の影と恩師との衝撃的な出会い
1965年頃、日本は「昭和40年不況」の荒波に揉まれていました。会議では、株価が額面の50円を割り込む危機が囁かれ、親戚に株購入を頼むよう指示が出るほどでした。澤部氏も父に借金をして自社株を買いましたが、内心では「この会社は大丈夫か」と不安を抱き、大学へ戻る選択肢さえ頭をよぎったというから驚きですね。
そんな中、澤部氏は運命の恩師、大歳寛氏と出会います。当時の玉川事業部は赤字に苦しんでおり、事業部長だった大歳氏は、本社幹部と激しくやり合った後、書類を机に叩きつけるほど殺気立っていました。ある日、経理へ異動していた澤部氏に、大歳氏は「君はこの表のどこにいるか分かるか」と唐突に問いかけました。
答えに窮する澤部氏に対し、大歳氏は「間接費(利益を直接生まない経費のこと)だ」と一喝。さらに人事カードを見て「成績が悪い」と吐き捨てました。このあまりにも率直で厳しい評価に、SNS上では「今ならパワハラと言われかねないが、本質を突いている」「ここから這い上がったのが凄い」といった驚きの声が上がっています。
極めつけは、大歳氏の部屋に呼ばれた際の言葉でした。「事業部は儲ける場所だ。君のような『あほ』はいらん」と突き放されたのです。しかし、これには続きがありました。「あほでも給料をくれる場所がある。本社だ」と、本社経理部への異動を命じたのです。突き放すような物言いの中に、実は成長の機会を与える親心があったのでしょうか。
1966年初頭、澤部氏はわずか1年3カ月で玉川を去ります。当時はその冷徹な物言いに反発を感じ、後に大歳氏の部下だった遼子夫人と結婚した際も、恩師を招待しなかったほどでした。嫌な上司だと思い詰めていた日々。しかし、この厳しい洗礼こそが、後のTDK会長を作り上げる強固な土台となったことは間違いありません。
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