🎨**【京都美術史】速水御舟と浅井忠も愛した!「洛外」が育んだ近代日本画・洋画の革新と魅力**✨

日本近代美術史において、京都の「洛外」、すなわち都の外側の地域が果たした役割は計り知れません。特に近代の洋画家と日本画家がこの自然豊かな地で制作の拠点を構え、新しい表現を生み出した事実は、今に続く京都のアートシーンの礎を築いたと言えるでしょう。今回は、近代日本画の巨匠、速水御舟(はやみぎょしゅう)と、日本の洋画界を牽引した浅井忠(あさいちゅう)が、いかに洛外の風景に魅了され、その地で芸術的な高みへと昇華させていったのかを紐解いていきます。

大正時代、当時「写実の徹底」を志していた速水御舟は、「絵画の真生命」を見いだしたいという強い思いから、1918年(大正7年)6月、京都市左京区の洛北・修学院にある林丘寺(りんきゅうじ)境内の雲母庵(きららあん)へと居を移しました。当時は、訪れる人も稀な物寂しい土地であったそうですが、御舟はこの静謐な風情を深く愛したのでしょう。彼は、フランスのバルビゾン派の画家たちが故郷の風景を作品に残したように、この洛外での生活を「潜(ひそ)かな紀念」として「洛北修学院村」を描き出しました。御舟が描いた深緑を思わせる、鮮やかな緑青(ろくしょう)や群青(ぐんじょう)といった絵の具がふんだんに使われたこの作品は、作者の理想の風景を映し出しているのでしょう。

御舟の「洛北修学院村」は、多くの場所のスケッチを組み合わせた、いわば現実の風景を超越した「理想郷」でした。彼はこれ以前にも、1917年(大正6年)に「洛外六題」という六つの洛外の風景を一つの画面に収めた作品を描き、これが第4回院展(日本美術院展)で横山大観(よこやまたいかん)や下村観山(しもむらかんざん)といった院展の幹部から絶賛され、若くして同人(どうにん)に推挙されるという快挙を成し遂げています。この「洛外六題」が、日本の伝統的な「やまと絵」と中国の文人画の系譜を汲む「南画(なんが)」を融合させた「新南画」として評価されたのに対し、「洛北修学院村」では細密描写(さいみつびょうしゃ)を取り入れた、さらなる写実主義(リアリズム)への挑戦が見られます。この追求心は、続く1920年(大正9年)の「京の舞妓(まいこ)」の質感表現へとつながりますが、あまりにも実験的であったために、大観が除名まで主張するほど物議を醸したという逸話も残っています。しかし、その短い京都での滞在期間が、後の御舟の芸術に大きな実りをもたらしたことは間違いありません。

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💡日本の洋画革新の拠点「関西美術院」と洛外風景の魅力

洛外の景色に魅せられたのは、日本画家だけではありませんでした。日本の洋画の父とも呼ばれる浅井忠もまた、この地を愛した洋画家のひとりです。浅井は、フランス留学から帰国した後、東京美術学校(現・東京芸術大学)教授を辞し、1902年(明治35年)に新設された京都高等工芸学校(現・京都工芸繊維大学)の教授に就任しました。そして、1906年(明治39年)には、自身の私塾を発展させる形で洋画研究所「関西美術院」を創設します。この関西美術院は、洛外の岡崎(現・京都市左京区)に拠点を構えていたこともあり、多くの洋画家がこの周辺の風景を題材にした作品を残しています。

浅井自身も、洛外を描いた作品として「若王子(にゃくおうじ)風景」を残しています。この作品は、如意ケ嶽(にょいがたけ)の麓に広がる家々と段々畑を描いた水彩画であり、その軽快な筆致と明るい雰囲気が特徴です。水彩画は、油彩画に比べて手軽であり、浅井は水彩画が洋画の普及につながると考えて、積極的に制作に取り組みました。彼の描いた若王子風景の舞台と思われる熊野若王子神社(くまの・にゃくおうじ・じんじゃ)のあたりは、高台から家並みを見渡せる絶好の場所であり、関西美術院からもほど近かったことから、画家の身近なスケッチ場所であったことが想像されます。

浅井の没後、関西美術院は鹿子木孟郎(かのこぎ・たけしろう)などが牽引しました。浅井も鹿子木も、城下町出身でフランス留学経験があるという共通点があり、京都という都市に親しみやすかったのかもしれません。彼らは留学を通じて風景描写の重要性を学び、それが自然豊かな洛東(らくとう)などの洛外地域への関心につながったのでしょう。鹿子木の油彩画「鴨川(出雲路橋付近)」は、下鴨神社近くの鴨川(賀茂川)の風景を描いたもので、セーヌ川を描いた経験を持つ鹿子木にとって、鴨川もまた制作意欲を掻き立てられる場所だったに違いありません。

明治維新(めいじいしん)に伴う東京遷都によって、京都の美術工芸界は一時的に大きな打撃を受けましたが、この関西美術院には、日本画家の千種掃雲(ちくさ・そううん)や陶芸家の宮永東山(みやなが・とうざん)といった、洋画、日本画、工芸の枠を超えた多様な芸術家たちが集いました。これは、京都の美術工芸の復興を目指すという共通の目標のもと、関西の美術家と工芸家が一体化した動きであったと専門家は指摘しています。自然あふれる洛外の地で、異なるジャンルの芸術家たちが共にスケッチに励み、切磋琢磨(せっさたくま)する姿は、まさに近代京都美術の熱いエネルギーを感じさせるものでしょう。このような背景から、洛外は単なる風景画の題材に留まらず、芸術家たちの革新的な実験場、そして交差点となったのだと、私は強く感じています。

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